ジョーダン旋風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:26 UTC 版)
「1984-1985シーズンのNBA」の記事における「ジョーダン旋風」の解説
マイケル・ジョーダンは当時の新人としては破格の7年600万ドル契約、ナイキなど数社とのプロモーション契約など、開幕前から話題を集めていたが、彼がそこまで破格の待遇を受けるに相応しい選手なのか懐疑的に思う人もいた。しかし新シーズンが開幕してしまえば、ジョーダンの鮮烈なプレイが瞬く間にリーグを席巻した。 ジョーダンが加入する前のシカゴ・ブルズは3シーズン連続でプレーオフ出場を逃していたドアマットチームだった。不甲斐ないチームに地元の関心も離れ、1980-81シーズンを境に観客動員数は右肩下がりとなっていた。しかしジョーダンが登場したこのシーズンは、前季の260,950人から87%増となる487,370人を動員。ジョーダンの経済効果は他チームにも及び、ブルズが遠征でやってくる試合のチケットは飛ぶように売れ、いつもは閑古鳥が鳴いているようなアリーナでも満席となった。 ルーキーイヤーからオールスターゲームに出場したが、しかし初めてのオールスターはジョーダンにとって苦い経験となった。ジョーダンはリーグの先輩であるチームメイトからパスを回してもらえない「フリーズ・アウト」という仕打ちを受けたのである。首謀者と言われたアイザイア・トーマスはこの企みを否定したが、オールスター明け後最初の試合でジョーダンはこの時の鬱憤を晴らすように49得点を記録。この時の相手はアイザイア・トーマス所属のデトロイト・ピストンズだった。 ジョーダンはこのシーズン28.2得点(リーグ3位)6.5リバウンド5.9アシスト2.4スティールを記録し、新人王を獲得。ブルズも前季から11勝を上積みし、4シーズンぶりにプレーオフに進出した(ミルウォーキー・バックスの前に1回戦敗退)。
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