ジョーダン引退期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 00:37 UTC 版)
「スコッティ・ピッペン」の記事における「ジョーダン引退期」の解説
マイケル・ジョーダンというNBA史上最高といえる選手が同じチームにいたこともあり、スコッティは過小評価される向きがあった。1993年にジョーダンが野球選手への転向を発表し、引退した時、翌シーズンのブルズは相当に成績を落とすだろう、プレイオフにも出場できないだろうという予想がよく聞かれた。しかし、翌1993-94シーズンには前シーズンより2勝少ないのみの55勝を挙げる原動力になり、スコッティはチームリーダーであることを証明した。また個人成績でもシーズン平均22.0得点、8.7リバウンド、5.6アシストという全キャリアを通じても最高水準の結果を残しており、オールスター戦ではMVPに選ばれた。 このシーズンのプレイオフ、ニューヨーク・ニックスに敗れたカンファレンス・セミファイナル第3戦で、試合時間残り1.8秒、最後の逆転を狙う場面で監督のフィル・ジャクソンはトニー・クーコッチにシュートを打たせるプレイを指示した。納得できなかったスコッティは出場を拒否した。クーコッチはシュートを決めてブルズは逆転に成功したものの、スコッティの行動はチーム内で議論を起こしファンやマスコミには批判された。このニックスとのシリーズではブルズは20点差以上リードした試合でもタフなディフェンスに苦しめられたか逆転負けを喫することがあった。「マイケル・ジョーダンのいないブルズ」は大方の予想を覆す好成績を残し、プレイオフでも善戦はしたものの、ニックスとのシリーズでは最終第7戦で敗れてしまう。 翌1994-95シーズン、スコッティは前シーズンとほとんど変わらないオールラウンドな数字を残す。またこのシーズンも引き続きオールNBAファーストチーム、オールNBAディフェンシブファーストチーム入りしリーグの第一人者であることを示す。また、このシーズン、ピッペンはキャリアで唯一となる投票による選出以外のタイトル、スティール王を獲得している。フォワードがこのタイトルを獲得するのは極めて珍しく、彼の能力の高さを示すものであった。しかし、このシーズンの開幕前にピッペンの大の親友であり、ブルズのゴール下を支え続けたパワー・フォワードのホーレス・グラントがオーランド・マジックに移籍してしまっていた。彼もやはりブルズのチーム内で自分があまりに評価が低いことに不満を持っており、フリーエージェントで高額契約を手にするための移籍であった。ピッペンは「ホーレスを失ったチームではプレイしたくない」などと首脳陣を批判したりトレードを要求しては撤回したりと周囲との確執が徐々に増えていった。シカゴ・ブルズの成績は47勝35敗と前のシーズンより落ちてしまうが、このシーズンの末にはジョーダンの復帰という大きな出来事があった。復帰したジョーダンは「このチームのリーダーはピッペン」と語ったが、スコッティが2シーズンに及んだチームリーダーの重責から部分的にも解放されたのは事実であった。このシーズンのブルズは、復帰したばかりのジョーダンが本来の安定感を欠いていたこと、インサイドのリバウンドやディフェンスが弱体化していたこともあってプレイオフのカンファレンス・セミファイナルでオーランド・マジックに2勝4敗で敗れている。 ジョーダン不在の2年間は1994年のプレイオフでの出場拒否事件もあったもののスコッティにとってはチームを率いる立場で実力を示した時期でもあり、リーグを代表する選手として認められた時期でもあった。
※この「ジョーダン引退期」の解説は、「スコッティ・ピッペン」の解説の一部です。
「ジョーダン引退期」を含む「スコッティ・ピッペン」の記事については、「スコッティ・ピッペン」の概要を参照ください。
- ジョーダン引退期のページへのリンク