ジョアン2世時代
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「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の記事における「ジョアン2世時代」の解説
ジョアン2世王と、その継母であった王妃フアナ・ラ・ベルトラネーハの侍女アナ・デ・メンドーサ(英語版)の間の非嫡出子として生まれ、アヴェイロのジェズス修道院に暮らす伯母ジョアナ(英語版)王女に引き取られて養育された。1490年伯母が死ぬとリスボン宮廷に戻り、アブランテシュ伯爵(英語版)の息子の1人ディオゴ・フェルナンデシュ・デ・アルメイダ(ポルトガル語版)が養育係に付けられた。 1491年父王の唯一の嫡子アフォンソ王太子が死ぬと、次の王位継承者は従弟でキリスト騎士団総長のベージャ公マヌエルとなった。ジョアン2世はキリスト騎士団の影響力もベージャ公本人のことも警戒していた。1483年から84年にかけてのジョアン2世による大貴族粛清の際、ベージャ公は兄ヴィゼウ公(英語版)と義兄ブラガンサ公を処刑され、自身も愚者のふりをすることで難を逃れたのだった。そして今ジョアン2世にとって「愚者」に見えるベージャ公が王位を継ぐことは、ジョアン2世が艱難辛苦の末に成し遂げつつあった中央集権化改革の成果を水泡に帰し、王国の富を再び大貴族たちの餌食にすることを意味した。 ジョアン2世はベージャ公の王位継承を阻むため、庶子のジョルジェを王位継承者にすげ替える計画を立て始めた。教皇インノケンティウス8世の許可を得て、ジョアン2世は1492年4月ジョルジェをサンティアゴ騎士団及びアヴィシュ騎士団の総長に選出させた。この動きに呼応して、その数日後、ジョルジェの養育係ディオゴ・フェルナンデシュ・デ・アルメイダが、聖ヨハネ騎士団のポルトガル支部長であるクラート修道院長(英語版)に選出された。一方、ベージャ公の姉であった王妃レオノールは、キリスト騎士団などと連携し、ジョルジェの台頭を阻止し弟の地位を守るための政治活動を糾合し始めた。 1494年、ジョアン2世は教皇庁に与党のアブランテシュ伯家の者2名を使節として派遣し、ジョルジェを嫡出子と認めるよう教皇アレクサンデル6世に願い出たが、すげなく却下されている。しかしジョアン2世はベージャ公一派に譲歩する気はさらさらなかった。1495年に亡くなる直前の遺言状で、王はベージャ公に対してジョルジェをコインブラ公及びモンテモロ=ヴェリョ(英語版)領主に叙爵し、さらに王位継承後、ベージャ公が保持するキリスト騎士団総長、マデイラ総督などの公職を全てジョルジェに譲るように求めていた。ジョアン2世はジョルジェに膨大な富と地位を集中させ、国内最大の高位貴族にすることで、ジョルジェを王の外祖父のコインブラ公ペドロのような大権力者に仕立てることを目論んでいた。 内戦を回避するため、新王マヌエル1世はジョアン2世の遺言状にある条項の大半を容認したが、キリスト騎士団総長の職を譲ることなど一部については拒絶した。また、容認した諸事項も実行に移すスピードは緩慢としていて、ジョルジェがコインブラ公に叙爵されたのは1500年5月、叙任の儀式が行われたのは1509年5月で、父王の死から14年が過ぎていた。ジョアン2世はまた、マヌエル1世に対し、ジョルジェには王女を娶らせることを約束させており、マヌエルは自分の最年長の娘が適齢期になればジョルジェに嫁がせると回答していた。この約束は守られることなく、ジョルジェは1500年カダヴァル領主アルヴァロ・デ・ブラガンサ(英語版)の娘ベアトリス・デ・ビリェーナ(1483年 - 1535年)と結婚している。
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