ジョアン3世時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 14:44 UTC 版)
「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の記事における「ジョアン3世時代」の解説
1521年、マヌエル王の死でジョアン3世が新王に即した後も、王室とジョルジェの係争は続いた。しかし王と対立を深めたのはジョルジェというよりもむしろ長男のトレシュ・ノヴァシュ侯爵ジョアン(後のアヴェイロ公爵)だった。ジョルジェとマヌエル王の息子同士の争いは激しく、スキャンダラスな色合いすら帯びた。1520年代後半、トレシュ・ノヴァシュ侯はジョアン3世王の弟グアルダ公とギオマール・コウティーニョ(ポルトガル語版)との結婚に強く反対した。理由はギオマールがマリアルヴァ伯領(英語版)・ロレ伯領(英語版)という2つの封建大所領の相続人であったためだけでなく、トレシュ・ノヴァシュ侯とギオマールがすでに秘密裏に結婚していたからである。ジョアン3世はトレシュ・ノヴァシュ侯をサン・ジョルジェ城に数年間監禁した。 ジョルジェは死の直前、67歳の晩年になってスキャンダルを起こした。ドン・フェルナンド・デ・リマの16歳の娘フィリパ・デ・メロを追いかけ回し、強引に妻としてしまったのである。ジョアン3世はこの醜聞を公に晒し、婚姻無効を教皇庁から取り付けた。 1550年7月にジョルジェが死ぬと、ジョアン3世は直ちに2つの騎士団の軍事指揮権を取り上げた。翌8月、教皇ユリウス3世の許可を得てジョアン3世はサンティアゴ・アヴィシュ両騎士団の総長職を得た。大きな外交圧力をかけて1551年12月に出させた2つ目の教皇勅書によって、両騎士団の総長は恒久的にポルトガル王が務めることが決まった。ジョルジェが騎士団の独立を保持するために闘ってきた努力は全て無駄になった。 ジョルジェのコインブラ公爵位は子孫が受け継ぐことが許されず、王室に回収された。王都であるコインブラの名を帯びた封臣の爵位が存在するのは不都合だというのが表向きの理由だった。実際には、この爵位を帯びた者が2人とも王位への挑戦者となったことが、次にこの爵位を帯びる者に再び玉座への野心を芽生えさせるかもしれない、というのが本当の事情だったと思われる。コインブラ公の爵位と結びつけられていた所領は、1535年ジョルジェの子孫のために創設されたアヴェイロ公爵に受け継がれた。
※この「ジョアン3世時代」の解説は、「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の解説の一部です。
「ジョアン3世時代」を含む「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の記事については、「ジョルジェ・デ・レンカストレ (コインブラ公)」の概要を参照ください。
- ジョアン3世時代のページへのリンク