ジャフナ大学として独立
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「ジャフナ大学」の記事における「ジャフナ大学として独立」の解説
1978年に交付された大学法第16号によってスリランカ大学は分割され、コロンボ大学、ペラデニヤ大学、スリ・ジャヤワルダナプラ大学、ケラニヤ大学、モラトゥワ大学とともにジャフナ大学が創設された。 1981年には医学部がティルネルヴェーリに移転した。さらに学生センターと人文学部棟の建設も始まったが、スリランカ内戦の開始に伴って中止された。1984年には伝統医療研究所のシッダ医学部門がコロンボ大学から移転、2年後には大学図書館が開設された。 インド平和維持軍(IPKF)と武装組織タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)との戦闘が激化した結果、1987年後半にジャフナ大学は甚大な被害を受けた。校舎や施設が破壊され、数多くの教職員、学生が内戦に巻き込まれて犠牲になった。さらにジャフナ半島全域がLTTEの支配下にあった1980年代後半から1990年代前半までの期間、ジャフナ大学は数多くの空爆、経済封鎖に伴う物資の不足に苦しんだ。さらに、度重なる夜間外出禁止令によって研究もままならない状況が続いた結果、数多くの教職員が退職した。 1985年、大学はジャフナより南にあるキリノッチに農学部の設置認可を受け、翌年には新キャンパスの建設工事が開始した。しかし、内戦の影響により1987年には校舎の放棄を余儀なくされた。1989年には工学部の設置認可も受けたが、やはり内戦により延期された。その後、農学部はキリノッチにある地域農業研究開発センターと農業開発訓練センターの建物を借りて1990年12月に活動を開始した。 1995年10月、スリランカ軍がジャフナ半島奪回作戦を発表した。そして、ヴァリカマム(英語版)地域の全住民に対して半島の他の地域またはヴァンニ(英語版)地区への退避令が出された。その結果、大学事務局はキリノッチにある農学部キャンパスへの移転を余儀なくされた。政府軍による奪回作戦は成功し、翌年には元のキャンパスに戻ることができた。しかし、作戦の影響によりティルネルヴェーリ・キャンパス内の施設は甚大な被害を受けた。また、1996年にはヴァンニ地区で戦闘が激化し、その影響を受けて農学部は複数回の移転を余儀なくされた。大学は農学部の移転を決め、1997年8月から農学部はジャフナで活動を再開した。 1997年3月26日、バブニヤにあった北部州立ユニバーシティ・カレッジ(NPAUC)を昇格させ、ジャフナ大学バブニヤ・キャンパスとすることが発表された。NPAUCは1991年に設立され、数学、会計学、財政学などのコースを提供していたため、バブニヤ・キャンパスには応用理学部と商学部が設置された。1999年には人文学部から経営学・商学部が独立した。また同年には大学院の設置も行われた。 2009年に内戦が終結した後、キリノッチにおいて新農学部棟の建設が始まった。学部の教員たちは2013年の移転を望んでいた。2011年4月には大学側がキリノッチにある農学部の隣に工学部を設置することを認めた。2012年9月から学生の移動が始まる予定である。 2016年にはテクノロジー学部が設置された。この学部は同年末から学生を受け入れる予定で、キリノッチ・キャンパスの農学部、工学部の隣に設置される予定である。
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