ジクストゥス事件
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「カール1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「ジクストゥス事件」の解説
詳細は「シクストゥス事件」を参照 1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスとグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。 カールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、かえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる。 ベルギー復興の支援 アドリア海への通行権を伴ったセルビア王国の独立の保証 ロシア皇帝ニコライ2世退位後のサンクトペテルブルクの状況が明確になった時点での、コンスタンティノープルのロシアへの割譲の賛成 手紙は上記のような内容で、さらに次のように明記してあった。 朕はジクストゥスを通して、フランス大統領レイモン・ポアンカレ氏に内密に通告する。同盟国の皇帝として、(ドイツ帝国領)アルザス=ロレーヌ地域のフランスへの返還は正当であると認め、あらゆる手段を行使して、これを支援する考えである。 フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。 しかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。 大戦に参戦した国家の責任者の中で、オーストリアのカール皇帝だけが品位のある人物であったが、誰も彼に耳を貸そうとはしなかった。彼は心から平和を願っていたが、そのためにみんなから軽蔑されたのだ。こうして唯一無二のチャンスは失われてしまった。 — 批評家アナトール・フランス
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