ジギー解放運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 08:34 UTC 版)
1969年3月に、シカゴ・トリビューン紙の記者マイケル・スニード(Michael Sneed)は、ジギーの境遇に注目して記事を執筆した。 6フィートの牙は、今は朽ちて折れようとしている。巨大な胴体からは稀に嘆きの声が発せられる。…ジギーは訪問者への対面を拒み、後ろの壁の方に向き直り、前に後ろにとふらふら歩いている。時には投げられた食べ物を拾い上げることはある。… この記事は大きな反響を呼び、ブルックフィールド動物園にはジギーの解放を求める手紙が殺到した。園長に着任したばかりだったピーター・クロウクロフト(Peter Crowcroft)は、ジギーの解放を彼自身も望んでいることを発表した。但しクロウクロフトは、象専用の新しい飼育舎を建設するために50,000ドルの費用が必要で、園側ではその費用が捻出できないことも説明した。 この発表を受けてシカゴ近辺の人々、とりわけ児童や生徒たちは、「ジギー基金」(Ziggy Fund)としてお金を集め始めた。沢山の小学生や中高校生などが基金調達に携わり、イリノイ州ベルウッド(en:Bellwood, Illinois)のボーイズクラブは、5フィートもの高さがあるジギーの紙粘土製の像を作って募金のために街を練り歩いた。支援のうち幾つかは、海外からも届いた。その中には当時ベトナム戦争に従軍していたアメリカ軍兵士からのものも含まれていた。1970年8月に動物園は、シカゴビュイック・オペルディーラー連合会の会長だったウィリアム・シットウェル(William Sitwell)からも多大な寄付を約束された。 募金額が目標額の50,000ドルに近づいてきた時期に、動物園の関係者は象の新しい飼育舎を建築する前に、ジギーを戸外へ出してどう反応を見せるか試そうと決定した。 1970年9月23日、ジギーは30年近い監禁生活の末に太陽の光を浴びることになった。スリム・ルイスは、当時住んでいたシアトルから、ジギーの外出に付き添うために訪問してきた。 ジギーはほぼ30分もの間、飼育舎の戸口に立ちつくした後、ゆっくりと外に出て干し草の束を食べた。1時間ほど戸外の様子を探った後、ジギーは飼育舎の中に戻っていった。 ジギーのための屋外設備付き飼育舎は、1971年の夏に完成した。集まった50,000ドルの大半は、象が人間の介在なしに自由に屋内と屋外を行き来できる自動ドアの設備に費やされた。 最終的にジギーは、1000人以上の来園者が歓声をあげる中で、新しい飼育舎へ1971年8月28日に入った。その後数ヶ月の間に、動物園はジギーのために浅いプールと室内設備を整備した。
※この「ジギー解放運動」の解説は、「ジギー (象)」の解説の一部です。
「ジギー解放運動」を含む「ジギー (象)」の記事については、「ジギー (象)」の概要を参照ください。
- ジギー解放運動のページへのリンク