サフォークとサマセットの台頭
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「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「サフォークとサマセットの台頭」の解説
1447年、国王と王妃は議会の召集に先立ち、グロスター公を反逆の容疑で召喚した。これは、グロスター公の政敵であるサフォーク伯、ボーフォート枢機卿とその甥であるサマセット伯エドムンド・ボーフォートに唆されたものであった。グロスター公はベリー・セント・エドムンズに監禁され、2月に審理の前におそらくは心臓麻痺のためそこで亡くなった。4月にボーフォート枢機卿も亡くなると、宮廷を掌握したサフォーク伯が国王夫妻の信任の下全権を振るっていった。 ヘンリー6世の推定相続人であるヨーク公は宮廷から締め出され、1445年にノルマンディー総督を解任され、1447年にアイルランド総督へ転出された。一方で彼の政敵サフォーク・サマセットの両伯爵は公爵に昇叙された。公爵位は通常、君主の直系の近親のみに与えられるものであった。サマセット公は戦争指導のためヨーク公の後任のノルマンディー総督に任じられフランスへ赴き、サフォーク公は支持者を増やす一方で宮廷の評議会で大貴族などを排除して専制体制に走った結果、ヨーク公や多くの貴族を敵に回すことになった。 ヘンリー6世の統治の後半、法と秩序の崩壊、汚職、王領の寵臣たちへの分配、王室財政の窮乏、フランスでの恒常的な失地といった要因で統治はますます不評になっていた。この不評は1450年1月に、国王の取り巻きの中で最も人気がなく反逆者とみなされていたサフォーク公への、庶民院の反対運動という形で表出した。前年の1449年、フランスでの軍事行動を指揮していたサマセット公は、ヘンリー6世と親しいブルターニュ公フランソワ1世の弟ジルを1445年から監禁していることを口実に、3月にブルターニュの都市フージェールを奪い取ってノルマンディーで再び戦端を開いたが、7月からフランス軍に3方向から攻撃されフージェールを奪回され、11月4日にルーアンを奪われカーンまで押し返された。 軍事的失策と専制への激しい非難にさらされたヘンリー6世はやむなく1450年3月にサフォーク公を追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡で待ち伏せされ、5月に暗殺された。サフォーク公の遺体は、ドーバーの浜辺で発見された。ノルマンディー方面も危機を迎え、3月に戦況打開を図りトーマス・キリエル率いる援軍をノルマンディーへ送ったが、4月15日にアルテュール・ド・リッシュモン大元帥(フランソワ1世とジルの叔父)が率いるフランス軍がイングランド軍をフォルミニーの戦いで破りキリエルを捕縛した。フランス軍は勢いに乗り7月1日にカーンを占領、8月12日にシェルブールも奪取してノルマンディーを完全制圧、ヘンリー5世が苦労の末勝ち取った全ての州を奪還した。往々にして報酬を支払われることがなかった帰還兵たちは、イングランド南部諸郡における無法状態を助長した。
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