サフォーク公爵夫人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/20 14:04 UTC 版)
「フランセス・ブランドン」の記事における「サフォーク公爵夫人」の解説
フランセスは死後の数世紀にわたり、長女のジェーン・グレイを美化する人々によって冷酷で権勢欲の強い女性として描かれてきたが、存命中は多くの尊敬と敬意を集める婦人だった。専制的で情け容赦ない性格だったとする伝説とは対照的に、フランセスの生前の評判は寛容で親しみやすい、というものであった。例えば、彼女は夫の妹の子供たちで、両親を失ったトマス、マーガレット、フランシス(英語版)のウィロビー兄弟を一時的に引き取って育てた。マーガレット・ウィロビーは後にフランセスの末娘メアリーの親友となり、トマス・ウィロビーはフランセスの異母弟たちと一緒にケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版)に通った。兄弟はやがて叔父のジョージ・メドレー(George Medley)に引き取られたものの、依然としてフランセスの経済的援助を受けながら育った。 フランセスは王の姪として宮廷で最も地位の高い貴婦人の一人であり、頻繁に宮廷の儀式で役割を果たした。彼女は1537年に行われた王妃ジェーン・シーモアの葬儀で、ほぼ同年齢の2人の従姉メアリー王女およびマーガレット・ダグラスとともに葬列の先頭に立った。そして彼女たちと一緒に、王家の一員として新王妃アン・オブ・クレーヴズの歓迎役となった。フランセスは妹のエリナー、継母のキャサリン・ウィロビー、従姉マーガレット・ダグラスとともに王妃キャサリン・パーの女官となった。これはフランセス本人にとって大変な名誉であると同時に、長女のジェーンを宮廷内で有力な貴族グループに近づけるチャンスにもなった。 1551年、フランセスの異母弟ヘンリー(英語版)とチャールズ(英語版)が粟粒熱により相次いで早死にすると、サフォーク公爵の称号はいったん王室に返上された。弟たちの死によりフランセスがブランドン家の合法的な相続人と見なされたため、同年、フランセスの夫ヘンリー・グレイが妻の権利によって(英語版)初代サフォーク公爵に叙せられた。この叙爵によりグレイ家は貴族社会における地位を高めただけでなく、資産をも増やすことが出来た。 これに対し、不行跡ゆえに父によって相続権者から廃除されていた異母姉のグレイ・オブ・ポウィス男爵夫人アン(英語版)が、ブランドン家の相続権を狙って異母妹のフランセスとエリナーは婚外子だと主張したため、姉妹の間で1年にわたる訴訟が起きた。アンは偽造証書を作成してフランセスが相続した領地の一部を横領し、これらを違法な形で売却した。アンはさらに、父のサフォーク公爵の称号を自分の2番目の夫ランダル・ハワース(Randal Haworth)が相続できるよう画策したが、失敗に終わった。結局、裁判所はフランセスと同母妹のエリナーをブランドン家の正統な相続人と認めた。
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