サフダル・ジャングの治世
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「アワド太守」の記事における「サフダル・ジャングの治世」の解説
サアーダト・アリー・ハーンの死後、甥のサフダル・ジャングが太守位を継承した。 サフダル・ジャングの治世は農業生産も上がり、アワドが繁栄した時期でもあり、その治世は長い春ともいえる時期であった。サフダル・ジャングは公正な司法制度の組織にも力を入れた。官吏の登用に関してはサアーダト・アリー・ハーン同様、ヒンドゥーとムスリムを同様に扱っている。彼の政府における最高位の職は、ヒンドゥー教徒のマハーラージャ・ナワーブ・ラーイであった。 1748年、ムガル帝国は南下するアフガニスタンのドゥッラーニー朝に領土を侵略され脅かされ、サフダル・ジャングは皇帝ムハンマド・シャーの要請でアワド軍をムガル帝国軍の援軍とし、帝国の領土からドゥッラーニー朝アフガン軍を退けた(マヌープルの戦い)。 また、同年4月、ムハンマド・シャーの死後、後を継いだ皇帝アフマド・シャーによって、サフダル・ジャングはムガル帝国の宰相に任じられた。彼はデリーの領地に邸宅を構え、そこからムガル帝国の宮廷に出仕した。これにより、サフダル・ジャングはアワドの世襲をムガル帝国に認めさせ、アワド地方の支配とその正当性を確立した。 だが、1750年代、サフダル・ジャングは彼を中心とするイラン系貴族と、軍務大臣ガーズィー・ウッディーン・ハーン(フィールーズ・ジャング2世)や、後宮監督官ナワーブ・ジャウド・ハーンといったトルコ系貴族との争い巻き込まれた。 1752年8月、サフダル・ジャングはナワーブ・ジャウド・ハーンを、10月にはガーズィー・ウッディーンを暗殺したが、その息子ガーズィー・ウッディーン(フィーローズ・ジャング3世)などとの争いに敗れ、1753年5月13日に彼は宰相職を辞して、帝都デリーからアワドに引き上げた。
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