コニー・マックの引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 02:29 UTC 版)
「1950年のメジャーリーグベースボール」の記事における「コニー・マックの引退」の解説
フィラデルフィア・フィリーズのリーグ優勝に沸いたフィラデルフィアのもう一つの球団のアスレチックスのオーナー兼監督のコニー・マックがこの年限りで辞任した。1901年にバン・ジョンソンがアメリカンリーグ創設の時にウエスタンリーグ(アメリカンリーグの前身)のミルウオーキー・ブルワーズ(現在の球団とは無関係)の監督を務めていたコニー・マックに注目し、その人気・人格・球歴を考えて新しいアメリカンリーグの目玉にしょうと考えた。マックはジョンソン会長に請われて新球団フィラデルフィア・アスレチックスの共同オーナー兼監督として就任した。ジョンソン会長が新リーグの目玉としてもう1人注目していたのがジョン・マグローであった。マグローは結局ナショナルリーグのジャイアンツの監督に収まり、以後ナショナルリーグを代表する監督がジョン・マグローでアメリカンリーグを代表する監督がコニー・マックであった。この2人はワールドシリーズで3回対戦(1905年・1911年・1913年)して1905年はマグローのジャイアンツが4勝1敗で勝ち、あとの1911年と1913年はマックのアスレチックスが4勝2敗・4勝1敗で2度勝っている。そして1933年の第1回オールスターゲームはナショナルリーグ代表監督がジョン・マグローで、アメリカンリーグ代表監督がコニー・マックであった。リーグ優勝9回、ワールドシリーズ制覇5回で、ルーブ・ワッデル、ハーブ・ペノック、レフティ・グローブらのひと癖もふた癖もある選手をうまく御して実力以上のものを引き出したと言われている。1929年にハワード・エームケをワールドシリーズ第1戦に先発出場させた大バクチ、ルー・ブリッシー投手を戦争の負傷から7年間待ってカムバックさせた辛抱強さ、そしてタイ・カッブやトリス・スピーカーを引き取って花道を飾らせた人情味溢れた話など、たんなる名監督という言葉では括れないものを持っていた。 またコニー・マックは球団オーナーでもあり、経営者としては峻厳なところもあった。1910年から1914年の5年間で4度優勝して選手の年俸を上げ、すると球団経営が苦しくなり、給料が払えないとすぐに有力選手をトレードで他球団に売り払うことも厭わず、その後は低迷期が続き1915年から7年連続最下位となり、やっと立て直して1929年から1931年までリーグ3連覇したが大恐慌で苦しくなると再び選手を売り払ってチームを解体した。その後は低迷したまま3度目の黄金時代は到来しなかった。 人々は彼を『グランド・オールドマン・オブ・ベースボール』と呼び、監督在任中の1937年に既に野球殿堂入りを果たした。1862年生れで引退時88歳であったコニー・マックは6年後の1956年に94歳で死去した。
※この「コニー・マックの引退」の解説は、「1950年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「コニー・マックの引退」を含む「1950年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1950年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- コニー・マックの引退のページへのリンク