ゲームデザイナー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:56 UTC 版)
1980年代初期に駒澤大学法学部政治学科進学に伴って上京したが、ボードゲーム(特にウォー・シミュレーションゲーム)のデザイナーとしての活動による収入を生活費や学費の足しにする一方で留年を繰り返している姿が当時のゲーム雑誌に載っている。 この頃にイベントなどを通じてコアなボードゲーマーや他のゲーム製作者達との人脈を築いたとされる。当時付き合いがあった人物には法学者の高梨俊一や現役の自衛官、歴史家など様々な職業の人物がおり、後にその多くが佐藤の作品に「出演」している。また小林源文とは当時ウォーゲーム雑誌に寄稿していた作品の原案を手がけるなど親密な間柄にあり、小林の作品に今度は自分が「出演」したこともあった。また翔企画が神田神保町にあったこともあり、作品に使用する参考資料の収集も熱心に行っていた。 また、考証に気を配るウォーゲーム業界内に身を置いていた当時からデータマニアとして評価されていたが、一方で「締め切りを守らない、守れない男・締め切り破りの常習犯」という悪評も確立されていった。理由としては上述の綿密な調査活動に起因する物であるが、その他に単純な怠けから来る部分もあり、「一日のうち12時間以上寝られる」などと製作記事で自虐的な発言をしている。他にも「架空戦しか作らない」「ビッグゲームしか作れない」などという評もあった。 「リターン・トゥ・ヨーロッパ」を例に取るとゲームデザインの過程は次のようになっている。 『レッドサン ブラッククロス』世界の作品であり、史実をなぞる事が出来ないため、1週間程度かけて過去の設定資料をチェックし、架空世界の年表作成などを通じて世界観の構築を実施する。設定の混乱による時間の浪費を避けるため作業はデザイナー1人(佐藤のこと)で行い、共同作業の形態はとらない。 構築した設定を文書化し、ディレクターによる査読を実施。「1950年代におけるSSMの運用」など単一の設定でも原稿用紙10枚程度の分量になることもあり、また、相手の知識も豊富であるためリジェクトされる事もあったという。 基本設定が固まった後ディベロッパーが参加して戦闘序列、ルールなど「ゲーム」に必要な要素を作成していく。作成した年表を手元に置いておかないと、勝手なエピソードを追記されることもあるなど、ディベロッパー達も癖のある人物揃いである旨が語られている。
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