ケンブリッジへの復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 16:45 UTC 版)
「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の記事における「ケンブリッジへの復帰」の解説
ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、1929年『論理哲学論考』を博士論文として提出した。面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。(但し、これはケンブリッジに導入されたアメリカ流の学位制度を軽蔑していたムーアによる学位制度への皮肉だという解釈もある。)ウィトゲンシュタインは講師として採用され、トリニティ・カレッジのフェローとなる。この時期、カフェテリア・グループと呼ばれた一群に参加して、ジョン・メイナード・ケインズの確率論や経済学者フリードリヒ・ハイエクの経済理論についての議論を行ったりもしている。 1939年にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の哲学教授となり、その後すぐにイギリスの市民権を獲得した。 1946年10月25日、どの問題が本物である、あるいはまさに言語学的な問題であるかをカール・ポパーと議論した際にケンブリッジ大学キングス・カレッジ倫理科学部の会合でポパーに対し一つの倫理的命題を示せと言いながら火かき棒を振り回した際に「招待された講師を脅さないこと」とポパーに答えられ、激怒して会合から去ったと言われている。ただし、この話は目撃者の証言がまちまちである。 ウィトゲンシュタインは哲学研究のあいまに西部劇をみたり推理小説を読んだりして気分転換するという意外な面があった。これは、音楽はヨハネス・ブラームスまでしか認めず、それよりも後の時代の音楽作品は頽廃だとして受け入れなかったことと対照的である。また、彼が同性愛者であったという面についてはかなり議論があるが、フランシス・スキナーほか何人かの男性と関係をもったことは確かだといわれている。 晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向でアイルランド西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。1949年に前立腺がんと診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の原稿がほぼできあがっていた。生涯最後の2年をウィトゲンシュタインはウィーン、アメリカ合衆国、オックスフォード、イギリスのケンブリッジで過ごした。オックスフォードで彼の影響をうけたのがギルバート・ライルである。1951年、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ(Tell them I've had a wonderful life)」だったという。
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