グアノ貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 22:13 UTC 版)
「ウィリアム・ギブズ (実業家)」の記事における「グアノ貿易」の解説
1822年、会社はペルーの首都リマに事務所を設置した。1841年に事務所は、ウィリアムがグアノ運送委託に関してペルー・ボリビア両政府と契約を交わすことを発表した。当初輸入業は遅々として進まず、1842年の輸入量は182トンだった。この輸入量は、1847年にペルー政府がヨーロッパ・北米での会社の専売を認めたことで大きく跳ね上がり、1856年には21万1,000トン、1862年には43万5,000トンに達した 1850年代初頭の報告書では、チンチャ諸島(英語版)で行われているグアノ採掘が、カリブ海での邪悪なアフリカ人奴隷労働を生んでいることがヨーロッパやアジアまで聞こえている、と始められている。1854年には、"The Superintendent of British trade in China"(意味:中国における対英国貿易最高責任者)が、中国人苦力をチンチャ諸島へ運ぶ船の運行や英国人の出入りを禁止し、1855年には英国議会がこれを承認して "The Chinese Passengers Act"(意味:中国人旅客法)が制定された。 ペルー政府は独自の調査により、むち打ちや自殺未遂が頻繁に起きていることを把握していた。結果として、グアノの採掘事業はアントニー・ギブズ&サンズへと譲渡契約が結ばれることになった。それにも関わらず、この後も奴隷の酷使は続き、1856年には追加の中国人労働力の輸入が禁止された。1860年には4,000人の中国人労働者がペルーのグアノ採掘場で従事させられていたと計算されており、1人として生存した者はいなかった。 グアノ貿易で会社が得た利益は、1850年代で1年ごとに8万ポンド、1860年代で1年ごとに10万ポンドという金額であり、1850年代にはこの50%、1864年に資産整理を始めるまでの1860年代にはこの70%がウィリアム自身の報酬となっていた。結果としてウィリアムはイングランドの非貴族で最も裕福な人間(英: The richest non-noble man in England)となり、ヴィクトリア朝のミュージックホールで歌われた小歌では次のように冷やかされている。 「ウィリアム・ギブズは分け前作った、外国の鳥の糞を売ってね」"William Gibbs made his dibs, Selling the turds of foreign birds" しかしこれから数年の内に、硝酸ナトリウムや重過リン酸石灰など、より安価な肥料が登場した。1880年までには会社は南アメリカでの拠点をチリに移し、硝酸ナトリウムや副産物のヨウ素生産を始め、当時急発展していたヨーロッパや北アメリカでの軍需品貿易における高い需要に応えた。
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