グアノ採掘事業への参画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
グアノ発見を知った水谷は南鳥島での事業継続を決め、1903年2月に鳥糞採集願を東京府に申請した。ところが開拓権取得の時と同様に、今回も鉱業権の取得を出願する人物が現れて騒動となった。結局申請の約1か月後、水谷に鳥糞採集願の許可が下りた。 このように南鳥島でのグアノの鉱業権は当初水谷が所持していた。しかし取得後まもなく権利は他者に渡った。一方、1903年12月には水谷が所属していた金十舎南洋部が解散となり、後継会社として市川喜七らによって新たに南鳥島鳥糞燐鉱会社が設立される。水谷は会社創立直後、出資を行った上で入社する。1904年4月には南鳥島鳥糞燐鉱会社が南鳥島の鉱業権を所得し、同時に安達謙蔵が入社する。6月には水谷は島の開拓権を南鳥島鳥糞燐鉱会社に譲渡し、南鳥島鳥糞燐鉱会社が全面的に南鳥島での事業を展開する体制が整えられた。 1904年2月以降、南鳥島で採掘されたグアノは恒藤規隆が技術指導を行っていた全国肥料取次所によって肥料として精製、販売された。この間の経過の中で水谷は恒藤と知り合い、恒藤のところへしばしば出入りするようになった。
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