カッサ・ハイル時代
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「エチオピアの歴史」の記事における「カッサ・ハイル時代」の解説
後のテオドロス2世となるカッサ・ハイルは、タナ湖の西北部に位置するクワラ地区の長の子として生まれた。身分としては下級貴族ではあったが、その血筋を遡ればソロモン王朝に繋がると周囲にみられていた。だが、カッサは少年期に父を亡くし、親族によって財産を奪われた上に修道院に入れられてしまう。体よく追い払われたカッサだったが、法律、歴史、宗教を学んで自らの血筋の活用を見つけるとともに、長じるに従って射撃や剣伎でも才能を見せるようになっていた。 1839年には死去した異母兄から兵力を相続し、17歳の若さでタナ湖からスーダン国境にかけてゲリラ戦を展開し、その徹底した略奪ぶりは交易商から恐れられていた。だが、カッサが単なる強盗集団に留まらなかった。活動の大儀として「クワラに勢力を伸ばす皇帝アリ2世と、それを実質的に動かす母のメネン皇后に対する抵抗」を掲げたことと、略奪したものをクワラの農民に分け与えて義賊として支持を得たことで、カッサはこの地方に基盤を築き上げることに成功した。1845年になるとメネン皇后が折れ、クワラの長として追認するとともに皇帝の娘をカッサに与えた。この背景として、エチオピア北部を支配しようとするゴジャムのビルル、ティグレのウーベとの対立があり、カッサにはその支援が期待されていた。だが、皇后とその夫が率いる軍勢がティグレのウーベを攻撃している最中、カッサはクワラ北東のデンビアを抑え、さらにアムリク人の本拠ゴンダルの占拠にいたる。これに対し、皇后の率いる軍はティグレ軍を退却に追い込んですぐに反転し、ゴンダルの奪回に挑んだが、カッサはその動きをも利用してメネン皇后とその夫を捕虜とした。 皇后らの身柄は、アリ2世の交渉によって返還されたが、その代償として占領地の追認とデジャズマッチ(伯爵位、行政副長官)の称号をカッサに与えねばならなかった。以後の5年間は平穏な時期として、アリ2世とカッサは友好関係を維持し続けたが、カッサにとってはヤジュ朝を完全に葬り去るための準備の期間に過ぎなかった。カッサは再度反乱を起こすと18ヶ月間に及ぶ戦闘に全て勝利し、1853年6月29日にアイシャルの戦いを行ってアリ2世の軍隊を事実上崩壊させた。ティグレの有力者ウーベも、その一連の戦闘でアリ2世の味方をして打ち破られてカッサに従属したため、エチオピアの歴史においては、この日をもって「諸公侯時代」が終焉を迎えたとされている。ゴジャムのビルルとの戦闘も1854年にはビルルを捕らえることで決着し、その功績をもってエチオピア正教会から同年9月、「諸王の王」の称号を認められた。これはソロモン王朝の復活を意味している。
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