カッサ・ハイル時代とは? わかりやすく解説

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カッサ・ハイル時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:28 UTC 版)

エチオピアの歴史」の記事における「カッサ・ハイル時代」の解説

後のテオドロス2世となるカッサ・ハイルは、タナ湖西北部位置するクワラ地区長の子として生まれた身分としては下級貴族ではあったが、その血筋を遡ればソロモン王朝に繋がると周囲にみられていた。だが、カッサ少年期に父を亡くし親族によって財産奪われた上に修道院入れられてしまう。体よく追い払われカッサだったが、法律歴史宗教学んで自らの血筋活用を見つけるとともに長じるに従って射撃や剣伎でも才能見せるようになっていた。 1839年には死去した異母兄から兵力相続し17歳若さタナ湖からスーダン国境にかけてゲリラ戦展開し、その徹底した略奪ぶりは交易商から恐れられていた。だが、カッサ単なる強盗集団に留まらなかった。活動大儀として「クワラに勢力伸ばす皇帝アリ2世と、それを実質的に動かす母のメネン皇后対す抵抗」を掲げたことと、略奪したものをクワラの農民分け与えて義賊として支持得たことで、カッサはこの地方基盤築き上げることに成功した1845年になるとメネン皇后折れ、クワラの長として追認するとともに皇帝の娘をカッサ与えた。この背景として、エチオピア北部支配しようとするゴジャムのビルル、ティグレウーベとの対立があり、カッサにはその支援期待されていた。だが、皇后とその夫が率い軍勢ティグレウーベ攻撃している最中カッサはクワラ北東のデンビアを抑え、さらにアムリク人の本拠ゴンダル占拠にいたる。これに対し皇后率いる軍はティグレ軍を退却追い込んですぐに反転しゴンダル奪回挑んだが、カッサはその動きをも利用してメネン皇后とその夫を捕虜とした。 皇后らの身柄は、アリ2世交渉によって返還されたが、その代償として占領地追認とデジャズマッチ(伯爵位、行政副長官)の称号カッサ与えねばならなかった。以後5年間は平穏な時期として、アリ2世カッサ友好関係維持し続けたが、カッサにとってはヤジュ朝を完全に葬り去るための準備の期間に過ぎなかった。カッサ再度反乱を起こす18ヶ月間に及ぶ戦闘全て勝利し1853年6月29日にアイシャルの戦い行ってアリ2世軍隊事実上崩壊させた。ティグレ有力者ウーベも、その一連の戦闘アリ2世味方をして打ち破られカッサ従属したため、エチオピアの歴史においては、この日をもって諸公時代」が終焉迎えたとされている。ゴジャムのビルルとの戦闘1854年にはビルルを捕らえることで決着し、その功績をもってエチオピア正教会から同年9月、「諸王の王」の称号認められた。これはソロモン王朝の復活意味している。

※この「カッサ・ハイル時代」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「カッサ・ハイル時代」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。

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