ostracize
「ostracize」の意味・「ostracize」とは
「ostracize」は英語の単語で、日本語に訳すと「追放する」「排斥する」などの意味を持つ。古代ギリシャの民主主義の制度であるオストラキスモスから派生した言葉で、社会から特定の人物を一時的に排除することを指す。具体的には、その人物が社会や集団から物理的、あるいは社会的に疎外される状況を指す。「ostracize」の発音・読み方
「ostracize」の発音は、IPA表記では /ˈɒstrəsaɪz/ となる。IPAのカタカナ読みでは「オストラサイズ」、日本人が発音するカタカナ英語の読み方では「オストラサイズ」となる。発音によって意味や品詞が変わる単語ではない。「ostracize」の定義を英語で解説
「ostracize」は、"to exclude, by general consent, from society, friendship, conversation, privileges, etc."と定義される。これは、「一般的な合意により、社会、友情、会話、特権などから排除する」という意味になる。例えば、ある人物が集団の規範やルールを破った場合、その人物が集団から「ostracize」される可能性がある。「ostracize」の類語
「ostracize」の類語としては、「exclude」、「shun」、「banish」、「expel」などがある。これらの単語も「排除する」や「疎外する」などの意味を持つが、その使用状況やニュアンスには微妙な違いがある。例えば、「exclude」は一般的に物事を除外することを指し、「banish」は特に地理的な場所から追放することを指す。「ostracize」に関連する用語・表現
「ostracize」に関連する用語や表現としては、「ostracism」、「social exclusion」、「marginalization」などがある。「ostracism」は「ostracize」の名詞形で、「社会的排斥」を意味する。「social exclusion」は社会的な疎外や排除を指し、「marginalization」は社会の周辺部に追いやられる状況を指す。「ostracize」の例文
1. He was ostracized by his colleagues for his rude behavior.(彼は無礼な行動のために同僚から追放された。)2. The community ostracized the family because they did not conform to the local customs.(その家族は地元の習慣に従わなかったため、コミュニティから排斥された。)
3. She felt ostracized at school because of her accent.(彼女は自分のアクセントのせいで学校で疎外されていると感じた。)
4. The group decided to ostracize the member who broke the rules.(グループはルールを破ったメンバーを追放することを決定した。)
5. The society has a tendency to ostracize those who are different.(社会は異なる者を排斥する傾向がある。)
6. He was ostracized from the scientific community for his controversial views.(彼はその議論の余地のある見解のために科学界から追放された。)
7. The actress was ostracized by Hollywood after her political beliefs became public.(その女優は政治的信念が公になった後、ハリウッドから追放された。)
8. The decision to ostracize him was not taken lightly.(彼を追放するという決定は軽々しくは取られなかった。)
9. The organization ostracized those who did not agree with its principles.(その組織は、その原則に同意しない者を排斥した。)
10. She was ostracized for her refusal to participate in the group's activities.(彼女はグループの活動に参加を拒否したために追放された。)
陶片追放
(オストラサイズ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/20 07:53 UTC 版)

![]() |
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
|
陶片追放(とうへんついほう、ギリシア語: ὀστρακισμός、オストラキスモス)は、古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。英語のオストラシズム (ostracism) という名称でも知られる。広義には集落や集団からの追放を指し、日本の村八分と近いものと解釈される[1][2]。
沿革
アテナイにおいて僭主ヒッピアスを追放したあと、クレイステネスが紀元前508年ごろに定めたのが定説とされるが、最初に実施された前487年ごろに新規導入されたという説も根強い。
僭主登場を防止するためというのが教科書的な解釈であるが、近年では貴族たちの激しい抗争を平和的に解決するための手段だったとする説が有力になりつつある。前古典期のアテナイ史は貴族達の集団亡命とクーデターの連続であり、ライバルの一族郎党をアテナイから排除して実権を握った貴族は、国外で力を蓄えて復讐に燃えるライバルに再び追い落とされるという権力闘争があとを絶たなかった。こうした状況に終止符を打つため、一族全員の追放ではなく一人だけを追放に処すという緩やかな方式で、集団亡命とクーデターの憎しみの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放だった。
しかし、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されることもあり、たとえばペルシア戦争における優秀な指揮官であったアリステイデスは陶片追放により一時であれアテナイを追放され、またサラミスの海戦で活躍したテミストクレスも後に陶片追放によってその地位を追われている。そのため、陶片追放に古代アテナイが衰退する一因を見いだす見解もあるが、立法目的に照らせば、貴族たちの激しい政争を防いで民主制の安定に貢献したといえる。ともあれ、理性的な弾劾裁判制度が整備されるにしたがって弊害だけが目立つようになり、前5世紀末には廃れた。対比列伝には「候補者の事は何も知らないが、皆が騒いでいて気に入らないので陶片を投じる」などといった濫用例が記されている。
方法
毎年1回、陶片追放を行うかどうかの予備投票が民会で開かれ、実施が決まるとその二ヶ月後に陶片追放の投票が行われる。市民が僭主になる恐れのある者の名を陶片(オストラコン)に記し(なお代筆が認められていたので字が書けなくとも投票できた)、得票数が6000票を超えた場合、或いは投票総数が6000票を超えた時の最多得票者に10年間の国外追放が言い渡されたとされる(どちらが正しいかは定かで無い)。
ただし、追放された者が犯罪者のように扱われたわけではなく、家族・親族を連座で追放することはなく、市民権剥奪や財産没収などの付加刑を課せられず、10年の追放期間を過ぎた後には政治の主導権を握ることも可能であった。また、アテナイと友好的な関係にある都市から財産を換金して引き出し、生活にあてることも可能であるため、十分な財産があれば生活に困ることもなかった。有事の際には10年経っていなくても本国へ呼び戻されることもあった。実際に陶片追放が行使されたのは10件余りに過ぎない。
陶片追放の対象者
いくつかについては学術的に不明確なものを含む。
- 紀元前487年 ヒッパルコス(僭主ペイシストラトスの親族)
- 同 486年 メガクレス(ヒポクラテスの子、クレイステネスの甥)
- 同 485年 クレイステネスあるいはカリクセノス(クレイステネスの甥)
- 同 484年 クサンティッポス(クレイステネスの姪の夫、ペリクレスの父、アリフロンの息子)
- 同 482年 アリスティデス(リュシマコスの子)
- 同 471年 テミストクレス(ネオクレスの子)
- 同 461年 キモン(ミルティアデスの子)
- 同 457年 メノン(メネクリデスの子)
- 同 442年 トゥキディデス(メレシアスの子)
- 同 440年代 カリアス(ダイダモスの子)
- 同 440年代 ダモン(ペリクレスの顧問)
- 同 416年 ヒュペルボロス(アンティファネスの子)
ヒュペルボロスの追放については、前年のマンティネイアの戦い (紀元前418年)におけるアテナイとその同盟者たちの敗北の後、アテナイでは政治的な綱引きが行なわれており、アルキビアデスは平民の代表者として政治家クレオンの後を継いだデマゴーグ(煽動的民衆指導者)ヒュペルボロス に反対する立場から、ニキアス (Nicias) に加勢しており、ヒュペルボロスは、ニキアスかアルキビアデスのいずれかを陶片追放しようと試みたが、ニキアスとアルキビアデスは協力して影響力を行使し、結局アテナイ市民たちはヒュペルボロスを陶片追放にしたとされる。この経緯により同年以降「陶片追放」は廃止ないし実施されなくなったが、代わりに「違法提案に対する公訴(グラフェ・パラノモン)」の制度が採用され、従来からの法令に抵触する法の提案者に対して公訴を提起し、違反者には罰金を科すとする制度が採用されることとなった。
脚注
注釈
出典
参考資料
- 澤田典子『アテネ民主政 命をかけた八人の政治家』講談社選書メチエ、2010年、61-64頁。ISBN 978-4-06-258465-4。
- オストラサイズのページへのリンク