エリオ・グレイシーとの死闘
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「木村政彦」の記事における「エリオ・グレイシーとの死闘」の解説
1951年、サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地で柔道指導をし、昇段審査も行った。 同年9月23日、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーやホイス・グレイシーの父)に試合を挑まれ、絞め落とされ敗北する。エリオは兄のカーロス・グレイシーが前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。エリオは加藤だけではなく、木村がブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破り、ブラジル格闘技界の雄となっていた。その結果を受けて、木村は10月23日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムでエリオと対戦した。ルールは以下。 投技での一本勝ちは無し。ポイント無し。抑え込み30秒の一本も無し。決着は「参った」(タップ)か絞め落とすこと。 木村はエリオの細身の体格を見て「3分持てばあちらの勝ちでもよい」といいのけるほどの余裕を持って試合に臨んでいた。エリオも木村との圧倒的な実力差を承知しており、兄のカーロスも弟に試合前に関節技が極まったらすぐにタップするようにと念を押して約束させ、棺桶まで用意したという決死の覚悟で挑んだ。木村は2Rで得意の大外刈から腕緘に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がりギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。書籍『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によると代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方認めたため木村の一本勝ちで決着となった。また、同著によると木村の柔道の試合の映像は残っていないので木村の真剣勝負で映像が残っているのはこの試合が唯一である。後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。なお、腕緘がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。 激闘から半世紀の歳月が流れた1999年の秋、エリオは『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』に出場する息子ホイスと共に記者会見に出席するため初来日を果たした。その際、講道館を訪問して資料室を見学し、既に故人となっていた木村の写真を見て目に涙を浮かべ、「日本に来られて本当に良かった」と語ったという。2009年、エリオは95歳でその生涯を終えたが、晩年には「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村と戦った時に着た道衣が飾られている。
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