エリオ・グレイシーとの死闘とは? わかりやすく解説

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エリオ・グレイシーとの死闘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 21:12 UTC 版)

木村政彦」の記事における「エリオ・グレイシーとの死闘」の解説

1951年サンパウロ新聞社招待で、山口利夫加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行並行して現地柔道指導をし、昇段審査行った同年9月23日加藤幸夫現地柔術家エリオ・グレイシーヒクソン・グレイシーホイス・グレイシーの父)に試合挑まれ絞め落とされ敗北するエリオは兄のカーロス・グレイシー前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良加え寝技特化させたブラジリアン柔術使い手であったエリオ加藤だけではなく木村ブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破りブラジル格闘技界の雄となっていた。その結果受けて木村10月23日リオデジャネイロマラカナン・スタジアムエリオ対戦したルールは以下。 投技での一本勝ち無しポイント無し抑え込み30秒一本無し決着は「参った」(タップ)か絞め落とすこと。 木村エリオ細身体格見て「3分持てばあちらの勝ちでもよい」といいのけるほどの余裕持って試合臨んでいた。エリオ木村との圧倒的な実力差承知しており、兄のカーロスも弟に試合前に関節技極まったらすぐにタップするようにと念を押して約束させ、棺桶まで用意したという決死覚悟挑んだ木村2Rで得意の大外刈から腕緘極めエリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく骨折」である)。しかしエリオカーロスとの約束無視して強靭な精神力ギブアップせず、木村骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた会場騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドカーロスリング駆け上がりギブアップをしないエリオ代わりに木村の体をタップ書籍木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によると代理タップのため審判揉めるも、既に決着付いていると双方認めたため木村一本勝ち決着となったまた、同著によると木村柔道試合映像残っていないので木村真剣勝負映像残っているのはこの試合唯一である。後年木村エリオの事を「何という闘魂持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けて闘う試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家として態度絶賛している。なお、腕緘ブラジルアメリカでキムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合由来である。エリオ木村強さ敬意払い名付けたとされる激闘から半世紀歳月流れた1999年の秋、エリオは『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』に出場する息子ホイスと共に記者会見出席するため初来日果たしたその際講道館訪問して資料室見学し、既に故人となっていた木村写真見て目に涙を浮かべ、「日本来られ本当に良かった」と語ったという。2009年エリオ95歳でその生涯終えたが、晩年には「私はただ一度柔術試合敗れたことがある。その相手日本偉大な柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村戦った時に着た道衣飾られている。

※この「エリオ・グレイシーとの死闘」の解説は、「木村政彦」の解説の一部です。
「エリオ・グレイシーとの死闘」を含む「木村政彦」の記事については、「木村政彦」の概要を参照ください。

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