イーラス郡の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/10 21:45 UTC 版)
「イーラス郡 (テキサス州)」の記事における「イーラス郡の設立」の解説
イーラス郡は1856年にボスキー郡とコリエル郡の一部を合わせて設立され、地域の初期測量士だったジョージ・バーナード・イーラスに因んで名付けられた。この年、ジョン・M・スティーブンが町を造るための土地を寄付し、そこはスティーブンビルと名付けられ、郡庁所在地になった。 A・H・コブキンスが1854年にダブリンの町を造った。ダブリンの初期開拓者としてはウィル・ホランドとトム・ホランドがいた。ダブリンはPGAツアーの全米オープンとマスターズ・トーナメントで優勝したベン・ホーガンが少年時代を過ごした町になった。 1855年、測量士のジョージ・イーラスとニール・マクレナンに率いられた30人の開拓者が郡内に入った。その中にはウィリアム・F・スティーブンとジョン・M・スティーブンの兄弟が居り、また黒人の1家族がいたが、その名前と運命は歴史の中に埋もれた。 オーストリアのウィーンからの移民だったジョージ・イーラス(1813年-1891年)はテキサス・レンジャーに入り、テキサス志願兵第1連隊のビリングスリーのC中隊に加わり、チャールズ・バールソン大佐の指揮下でサンジャシントの戦いに参戦した。またアメリカ連合国の民兵隊にも加わった。イーラスはフリーメイソンであり、1852年から1855年までボスキー支部92号の創立会員かつ秘書官だった。 1875年から1915年の間は綿花が郡内の最大作物であり、1906年に最大の収穫量を記録した。1879年にテキサス・セントラル鉄道がダブリンに通り、1889年にはフォートワース・アンド・リオグランデ鉄道がスティーブンビルを通った。このことで郡内で生産される綿花を東部の市場に出せるようになった。1910年土地の疲弊とワタミゾウムシの被害により、酪農業、果樹園、苗床、ピーナッツ、牧草、養鶏への多角化が始められた。 サーバーの町がジョンソン石炭会社によって設立された。1888年から1921年の間に、テキサス太平洋石炭会社がサーバーの近くで石炭を採掘し、州内でも最大の石炭生産者になった。坑夫の25%はイタリア出身であり、サーバーの直ぐ郊外に「イタリアンヒル」という集落ができた。1903年に鉱山労働者同盟がジョー・フェノグリオを送り込んで、イタリア人労働者を組織させ、サーバー石炭坑夫ストライキが始まった。1970年代、この地域はセメント産業の燃料として瀝青炭の生産を始めた。 1893年にスティーブンビル・カレッジが設立された。1899年に地元牧場主ジョン・タールトンが財政的に苦境に陥っていたスティーブンビル・カレッジを救済したので、タールトン州立大学に改名された。
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