イハンタラ近郊・7/1~7/9にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/29 15:58 UTC 版)
「タリ=イハンタラの戦い」の記事における「イハンタラ近郊・7/1~7/9にかけて」の解説
イハンタラ村近郊での戦いは7月1日から始まり、この地域の戦闘にフィンランド軍は保有する砲の半分以上を集中させた。フィンランド機甲師団もイハンタラで集結、更にドイツ第303突撃砲連隊もこの地区に集まっていた。また、ドイツから提供されたパンツァーファウストなどの対戦車用兵器も用意されていた。 7月2日、フィンランド軍はソビエト第63師団と第30機甲師団のの無線を傍受し、次の攻撃が7月3日04:00に行われることを察知した。翌朝、ソ連の攻撃予定時間2分前にフィンランド軍機40機とドイツ軍機40機が準備中のソ連軍を爆撃し、フィンランド軍は250門の砲で4000発の砲弾をソ連軍に叩き込んだ。同日6:00、200機のソ連軍機の爆撃の後ソ連軍はフィンランド側に進攻を開始した。しかし、19:00、フィンランド兵は元の戦線を取り戻す。 イハンタラ近郊で行われた集中砲火はフィンランド史上最も激しいものだった。砲撃にあたってはフィンランド軍砲兵大将のヴィルホ・ペッター・ネノネンの考案した的確で迅速な目標変更と砲撃位置修正を容易にする砲火修正ドクトリンが用いられた。この戦闘でいままで防衛に廻っていたフィンランド軍はソ連兵に一気に砲火を集中させ、ソ連軍の先鋒を粉砕した。 S.P.プラトノフ中将によって記された『Bitva za Leningrad 1941-1944』(レニングラードの戦い 1941-1944)にはこう記されている。 ソ連軍の計画した攻勢は再三再四失敗した・・・勝利の為に。敵軍は意味のある堅い守備と我々への反抗で成功していた・・・この攻勢は6月21日から7月半ばの三週間で終わった、レニングラード方面軍右翼部隊の勢力は6月21日に最高司令部から発布された任務の遂行に失敗したのだ。 7月6日、フィンランド第6師団は18の砲兵大隊、一個砲兵中隊による砲撃で防衛を行ったにもかかわらずソ連軍は幾つかの成功を収めた。しかし、翌日ソ連軍は反撃をうけ押し戻され、13:00からの攻撃、19:00からの攻撃でも進軍することはできなかった。7月7日、ドイツ戦線で行なわれているバグラチオン作戦のためソ連軍の攻勢主力はヴオクシに退転し、状況の良い兵力をナルヴァの戦いに向けエストニア方面へと移動させ始めた。7月9日以降も幾つかの戦闘が行われたものの、9日以降ソ連軍はこれ以上の戦線の突破を試みることをあきらめた。
※この「イハンタラ近郊・7/1~7/9にかけて」の解説は、「タリ=イハンタラの戦い」の解説の一部です。
「イハンタラ近郊・7/1~7/9にかけて」を含む「タリ=イハンタラの戦い」の記事については、「タリ=イハンタラの戦い」の概要を参照ください。
- イハンタラ近郊・7/1~7/9にかけてのページへのリンク