アラビア、ヨーロッパへの伝播
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:23 UTC 版)
「四体液説」の記事における「アラビア、ヨーロッパへの伝播」の解説
「ユナニ医学#歴史」も参照 ビザンツ帝国で異教徒・キリスト教異端が迫害され、学者たちがサーサーン朝ペルシャに亡命したことから、四体液説をベースとしたギリシャ・ローマ医学はアラビアに伝わり、ヨーロッパではその多くが失われた。また、同じく体液病理説に基づくインド医学も、多くの文献がアラビア語に翻訳され影響を与えた。ギリシャ・ローマ医学に各地の医学を集大成した「ギリシャ・アラビア医学」(ユナニ医学)は、アル・ラーズィー、イブン・スィーナーなど、多様な民族・宗教の学者たちによって発展した。 ユナニ医学はギリシャ・ローマ医学をベースにしつつも、さらに発展させた。『ガレノスに対する疑念』(Shukuk 'ala alinusor)でアル・ラーズィーは、臨床経験と錬金術の実験を通し、ガレノスの発熱に関する説明や、四体液説、四大元素説に批判を加えた。イブン・スィーナーは、ガレノス医学をベースに『医学典範』(al-Qānūn fī al-Ṭibb)をまとめたが、血液が唯一の自然な体液だとするガレノス医学の考えには同意しなかった。スィーナーは、血液が腐敗・希薄化・濃縮化などで変化したものが粘液・黄胆汁・黒胆汁だと考えたが、四体液はすべて必要なもので、各々に「自然的」「不自然的」の2つの状態があるのだとした。体の各器官によって成分・性状が違うのだから、固さや柔らかさといった違いをもたらす他の体液も不可欠だと考えたのである。また、四体液に関する諸問題の探求は医師の領分ではなく、哲学者のものだと述べている。 11世紀に入ると、十字軍が編成されエルサレムに進軍し、ヨーロッパはアラビア世界に接触した。アラビアの進んだ文化がヨーロッパに伝えられ、サレルノ医学校(英語版)の教師だったモンテ・カッシーノ修道院のコンスタンティヌス・アフリカヌスなどが、アラビア語の医学書をラテン語に翻訳し、その知識はヨーロッパに再びもたらされた。
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