アメリカ合衆国のアジアへの進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 20:27 UTC 版)
「黒船来航」の記事における「アメリカ合衆国のアジアへの進出」の解説
産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。 しかし、すでに15世紀には地球球体説を基にヴァスコ・ダ・ガマ等の航海によって、我々の住む大地すなわち「地球が球体である」という事を理解していた欧州の国々は、クリストファー・コロンブスによる新大陸発見に伴いトルデシリャス条約(1494年6月7日)やサラゴサ条約(1529年4月22日)を結び、「(当時の)子午線の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属する」と取り決めていた。その後、大航海時代が訪れるとイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国がポルトガルやスペインの衰えに伴って境界線にあたる土地へ進出し、国威の興隆や戦争などに伴う各種条約によって各地を獲得していた。 幕末当時は、市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。 当時の人口は、アメリカ合衆国が1833年に約1,416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2,760万人であった。 アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、清国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
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