アメリカ合衆国のアリゾナ準州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:26 UTC 版)
「アリゾナ州の歴史」の記事における「アメリカ合衆国のアリゾナ準州」の解説
1861年3月16日、ニューメキシコ準州の南半分は合衆国からの独立を宣言した。アメリカ連合国アリゾナ準州は、カリフォルニア南部を連合国に参加させる特別な意図とともに、太平洋へアクセスできる有益なルートとみなされた。1860年、カリフォルニア南部は、残りのカリフォルニアからの脱退のためのすべての法的な障害をきれいにして、新しい合衆国の領地として承認されることを望んでいたが、それは決して具体化されることはなかった。当時人口がまばらであっカリフォルニア南部は、南軍のシンパの温床であった。ピカチョ峠の戦いは、南北戦争でアメリカ連合国が戦った最も西の戦闘で、アリゾナで戦われた唯一の大きな戦闘であった。(南北戦争の最西の戦闘はカリフォルニア州サンノゼで行われた)。戦争の間、合衆国の要塞はニューメキシコへ移動し、アリゾナはインディアンの攻撃に傷つきやすい状態で置かれた。米墨戦争の時の彼らの同盟があったにもかかわらず、インディアンとアメリカ人入植者との間の戦闘が始まり、インディアン部族の大部分が居留地へと移動することになった。 蒸気船、採鉱、牛、および汽車は、アリゾナの経済の要点となり、試掘者が金鉱を発見するとブームタウンが形成され、坑夫が去ったらブームタウンはゴーストタウンとなった。米墨戦争後のまもない時期の間、まだアリゾナでの大多数を占めていたメキシコ人たちは、採鉱労働力人口のほとんどを構成した。 1877年の砂漠法は、入植者に2.6平方キロの土地を与え、地域には人々が押し寄せた。 1900年代、アリゾナは、アメリカ合衆国上院を支配し続けていた共和党の計画により、ニューメキシコの一部として連邦に加入するところであった。ニューメキシコの大多数に受け入れられていたその計画は、アリゾナに住んでいるかなりの多数に拒絶された。1912年2月14日、アリゾナは最終的に合衆国の48番目の州として連邦に加入した。同年、州の女性は参政権を獲得した。
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