アメリカの初期モダンダンス
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「モダンダンス」の記事における「アメリカの初期モダンダンス」の解説
1915年、ルース・セント・デニスは夫のテッド・ショーンとともにデニショーンの学校および舞踊団を設立した。 セント・デニスは創作の部門を、ショーンはテクニックと構成の指導を担当した。[要出典] マーサ・グレアム、ドリス・ハンフリー、およびチャールズ・ワイドマンはいずれもこの学校の生徒で、舞踊団のメンバーであった。ダンカン、フラー、セント・デニスは自分たちの作品をより受け入れてくれる観客を求めてヨーロッパをツアーした。フラーの作品に至ってはヨーロッパ以外ではほとんど支援を得ていない。セント・デニスはアメリカに戻って活動を続けた。 マーサ・グレアムは、しばしば、現代の20世紀の劇場舞踊の創始者と見なされる。 グレアムはバレエをあまりに偏っている、すなわちヨーロッパ的であり、帝国主義的であり、非アメリカ的であると見ていた。 彼女は1916年にデニショーン学校の生徒になり、1923年にはニューヨークに移って、ミュージカル・コメディ、ミュージックホールなどに出演し、また自ら振付にも取り組んだ。 グレアムは 収縮と解放(コントラクション・アンド・リリース)の概念に基づいた独自のダンス・テクニック、」「グレアム・テクニック(英語版)」を開発する。グレアムの教えでは、「感じる」ことが求められた。「感じる」とは、床に接していることへの意識を高めると同時に、体全体に渡るエネルギーを感じ、それを観客まで届けることを意味する。 ダンスにおいてグレアムが開拓した点は、体の「中心」の強調(四肢を重視するバレエとは対照的)、呼吸と動きの連携、ダンサーと床の関係である。 1923年:グレアムがデニショーンを離れ、グリニッジ・ヴィレッジ・フォリーズでソロのアーティストとして活動を始める。 1928年:ハンフリーとワイドマンがデニショーンを離れ、独自に学校と舞踊団を設立。 1933年:ショーンが、マサチューセッツ州ベケット(英語版)にある彼の農場ジェイコブズ・ピローを拠点に、男性のみの舞踊団テッド・ショーン・アンド・ヒズ・メン・ダンサーズを設立。 初期のモダンダンサーたちは、教師に教わったテクニックや構成の手法を放棄し、独自の手法と考え方およびダンス・テクニックを編み出した。これがモダンダンスの基礎となった。 レスター・ホートン(英語版) マーサ・グレアムとルイス・ホースト(英語版) ドリス・ハンフリーとチャールズ・ワイドマン(英語版) ヘレン・タミリス(英語版)は、自由運動(アイリーン・ルウィンソン(英語版))とバレエ(ミハイル・フォーキン)の訓練を受けた後、イザドラ・ダンカンのもとで短期間学ぶが、個人的な表現と叙情的な動きに重点を置くことが受け入れられなかった。タミリスは、ダンスごとに独自の表現手段を創造する必要があると考え、それゆえ個人としての様式やテクニックを生み出すことはなかった。振付家としてのタミリスは劇場舞踊とミュージカル・シアターの両方で活動し、アメリカ的なテーマによる作品を創作した。 レスター・ホートンは、モダンダンスの中心地であるニューヨークから3,000マイル離れたカリフォルニアで活動することを選び、ネイティヴ・アメリカンのダンスやモダンジャズなどの多様な要素を取り入れた独自のアプローチを開発した。ホートンのダンス・テクニック「レスター・ホートン・テクニック」は、表現の自由を可能にする柔軟性、強さ、連携、身体への意識を含む全身体的なアプローチを重視している。
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