アメリカの入り口
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:17 UTC 版)
ニューヨークがまだニューアムステルダムと呼ばれていた時代から、大西洋を渡ってアメリカへやってきた移民はマンハッタン島南端の桟橋に降り立ち、入国していた。やがて当地のクリントン砦跡(キャッスル・クリントン)が移民局の建物に利用されるようになった。800万人以上の移民がキャッスル・クリントンからアメリカに入国した。 しかし移民の管理の問題から、連邦政府はエリス島を移民受け入れの窓口とすることにした。1890年から75000ドルあまりを費やして、ニューヨーク湾の深部にあるエリス島の拡幅工事を行われた。埋め立てには、入港する船が積んできた土砂や地下鉄の掘削工事で出た土砂が使われた。 1892年1月1日からエリス島に建設された移民局が使用されるようになり、エリス島はヨーロッパ移民が最初にアメリカに踏み入れる土地となった。ヨーロッパから大西洋を渡り、ニューヨーク湾に入ると、移民たちは左舷にリバティ島に立つ自由の女神像を望みながらエリス島に到着した。エリス島を最初に通過した移民は、アイルランドからやってきたアニー・ムーア(Annie Moore)であった。エリス島はわずか11ヘクタールほど(東京ドーム2.5個分)の小島だが、1892年から1954年までの60年余りの間に、1700万人余りのヨーロッパ移民がここからアメリカに入国した。エリス島は新天地における最初の土地“希望の島(Island of Hope)”で、入国した移民を出迎えに来た親族や友人と最初に出会う場所はキスや抱擁が行われることから「キッシングポイント(Kissing Point)」と呼ばれた。一方、移民希望者の2%ほどは入国を認められず本国へ送り返され、家族が生き別れになることからエリス島は“嘆きの島(Island of Tears)”とも呼ばれた。入国審査は通常は数時間で、姓名や所持金を含む29の質問に答えるだけだったが、感染症の疑いや身元に疑いがある場合などには長期間エリス島に隔離された。3000人以上の移民がエリス島で抑留中に死亡した。連邦政府にとって重要なのは、移民がとりあえずやっていけるだけの所持金(概ね18ドルから25ドル)を持参しているかどうかだった。
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