アマビコとの類似点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 09:22 UTC 版)
詳細は「アマビコ」を参照 アマビコと称される妖怪についての図と話は、江戸時代後期から明治中期にかけての資料(瓦版や写本)や新聞記事などで確認されている。いずれも海中からの出現、豊作や疫病の予言、その姿を写した絵による除災、3本以上の脚部を持つ絵姿、「しばた」(柴田または芝田などと表記される)という姓の目撃者などの共通要素がある。アマビコ及びそれに隣接すると見られる資料群は確認される年代の幅が前後に広いことから(弘化より少し早い天保から、明治にかけて散発している)湯本豪一は名称の誤記例とした。長野栄俊はアマビエをアマビコの一例であるという考えも示しながらも、アマビエはむしろ人魚系(魚系)の容姿をしており(三本足も神社姫という人魚から派生したという湯本説を引用しつつ)、アマビエとアマビコの外見上の”類似性は高くない”と結論付けている。 肥後国の海に出現したとする資料が最も確認例は多く、アマビエを肥後国に出たとする話もこの影響下にあると考えられる。1876年(明治9年)に「尼彦入道」あるいは「アリエ」という名で新聞記事に報道されているアマビコに類する絵札の例でも「肥後国青沼郡」や「肥後国青鳥郡」の海に出現したされている(ただし、そのような郡が実在しないことは報道でも指摘されており、当時としても疑わしい話であると見なされていたと考えられる)。 当時、日本に来航していたM.C.ペリーによると、フィッシャーの、日本人の旺盛な好奇心と器用な漁師への言及として、”猿の上半身と魚と下半身を、普通に調べただけではそれと分からないほどうまくくっつけた”奇妙なしろものを見せ物にした。(中略)”このおかしな生き物は死に際に、あることを言い残したという話をでっちあげた(中略)。それは、大漁の年が数年続くということ、それと並行して、あるいはそのあとに、恐ろしい伝染病が流行るという予言だった。そしてその伝染病を逃れる唯一の方法は、その人魚に似た海の怪物の画像を持つことだったというのである。” という、一文があげられている。この「人魚」が売られたのが、1822年から23年と記述されているため、それより以前のことと思われる。 このほかに、日向国(現・宮崎県)に出たとされる「尼彦入道」の例も1件ある。1875年(明治8年)に報じられた「天日子尊(あまひこのみこと)」の例は、海ではなく新潟県湯沢町の田んぼに現れたとされる。。このように、名称や細部の内容が異なっていても本文全体の趣旨はほとんど同一のものであり、アマビエもこのような例の一つであったことがわかる。 アマビコの絵はどの例でも大抵奇妙な姿で描かれているが、アマビエの絵に比べると猿に似た、毛の生えた獣のような形で描かれることもある(『越前国主記』の海彦の例などもそれに近い)。またアマビエの文には採用されていないが、あま彦(『青窓紀聞』。天保14年のもの)や尼彦(湯本豪一所蔵)の絵など、肥後国に出たとされるアマビコには「猿の声して人を呼ぶ」など、猿のような声をしていたという点が登場する。アマビエやアマビコの海中出現は神社姫に由来する可能性があるとも指摘されている。
※この「アマビコとの類似点」の解説は、「アマビエ」の解説の一部です。
「アマビコとの類似点」を含む「アマビエ」の記事については、「アマビエ」の概要を参照ください。
- アマビコとの類似点のページへのリンク