アステカ征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 15:30 UTC 版)
時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。1519年、コルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、3月12日タバスコ川に到着、翌日の原住民との戦いに勝利する。ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、ヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラの族長の娘マリンチェと出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。7月26日に兵の逃亡を防ぐため船を沈める。同年8月、メキシコ湾岸にベラクルス市を建設すると、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった。当時、過酷な税制によってアステカ支配下の諸民族は不満を強めており、これがコルテスらの軍と同盟を結ばせる動機となった。結果、スペインと諸民族の混成軍は膨大な数に上った。10月16日チョルーラの虐殺が起きる。この虐殺においてスペイン人の正確な報告はない。モクテスマ2世がチョルーラの首長たちにコルテスをだまし討ちするよう命じたため、これを察知したコルテスがチョルーラの要人の殺害を命じた、あるいはトラスカラ人が宿敵のチョルーラ人に復讐するために起こしたと思われる。チョルーラの虐殺にアステカは震え上がった。 インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と崇められるようになっていたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします」と言われて丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。 弱腰を貴族たちに責められたモクテスマ2世が、前言を翻してスペイン人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。 コルテスはベラクルスでパンフィロ・デ・ナルバエスに率いられたキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れインディオを引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。しかしこのとき、兵120名とともに留守を任されていたペドロ・デ・アルバラードたちが祭典中のアステカ人たちを虐殺し、激怒したアステカ人たちは反乱を起こしていた。1520年6月29日、コルテスは反乱を起こしたアステカ人たちをモクテスマ2世に説得させようとしたが、激怒した住民によってモクテスマ2世は殺され、6月30日には暴動はさらに拡大して、コルテスは命からがらテノチティトランを後にした。この事件はスペイン側からは「悲しき夜(ノチェ・トリステ)」と呼ばれ、約1,000名のスペイン人が死亡した。 テノチティトランを脱出したコルテス一行は、7月7日オトゥンバ谷で追撃してきたアステカ軍に追いつかれるが、逆にこれを大破し、アステカ軍はテノチティトランに引き返した。7月12日、トラスカラに到着したコルテスはテノチティトラン再征服の為の軍備を整えた。 一方アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、10月には在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、かわって25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。 1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。
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