大畑才蔵(おおはたさいぞう 1642-1720)
大畑才蔵は、寛永19年に伊都郡学文路(かむろ)村(現橋本市学文路)に生まれた。
当地は、高野山の宿場町として栄えていたから、文化や学問に接する環境としては恵まれたところであった。 才蔵は、幼い頃から非凡であったらしく、大庄屋の補佐役になったのが17歳の時、46歳のときには庄屋になるとともに郡方御用も勤めた。その後紀州藩の士分にとりたてられるが、その士分推挙には、年下ながら上司であった、(埼玉)見沼代用水の開削などで知られる井沢弥惣兵衛為永(1663-1738)がかかわっていたといわれる。
その頃、紀州藩は今の和歌山県の大部分と三重県のほぼ南半分を支配する五万石の大藩であったが、深刻な財政難に悩んでいた。2代藩主徳川光貞(1627-1705)は、元禄4年(1691)のころから財政立て直しのために農政の改革に取りかかった。そのとき抜擢されたのが、学文路村の庄屋であった大畑才蔵である。このときすでに、すぐれた測量技術や土木工法を身につけた才蔵の名が知れていたのである。
1696年、54歳の大畑才蔵は、地方(じかた)役人として藩内を調査し、治水計画を立てた。
全体の工事区間を「水盛器(みずもりき)」と呼ばれる水準儀を使用した正確な高低測量結果から、いくつかの丁場(区間)ごとの必要資材や土量、必要人員などを計算し、事業の計画と経費見積もりをした。そして、複数工区での同時着工による工期短縮を実現し、経費圧縮を実現したのである。才蔵は、同様の手法で三重県の雲出(くもず)川からの用水路建設に成功する。その後、紀の川北岸の灌がい工事など各地の土木工事にあたり、これを完成させた。
紀州藩は、徳川吉宗(1684-1751)が5代藩主になってからも、財政再建のための新田開発に力が入れられ、引き続き才蔵が重用された。才蔵が最後に取り掛かったのが紀ノ川市小田井の用水工事であった。紀ノ川の北側に水を引くこの用水工事は、河岸段丘が続く地形的にも難しい工事であったが、小河川の横断にはサイフォンあるいは筧(かけひ)の技術を取り入れるなどして、宝永5年(1708)に第1期工事を完成させた。1715年には地方役人を退いたが、同用水工事は引き続き実施され1,200ヘクタールの美田が開かれたといわれる。
彼が残した「地方聞書」あるいは「才蔵記」とよばれている書には、年貢取り立て時の役人の心がまえ、農民にとって必要な知識のほか、水盛器を使った土地の高低測量技術などについて記録されているという。
大畑才蔵は、のちに治水の神様と呼ばれほど一生を治水と農民のために尽くした。才蔵の墓は橋本市の学文路の大畑家墓地にある。

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