いのうえ‐じゅんのすけ〔ゐのうへ‐〕【井上準之助】
井上準之助 いのうえ じゅんのすけ
大分生まれ。大正・昭和期の財政家、政治家。東京帝国大学卒。明治29年(1896)日本銀行に入行。30年(1897)に英国・ベルギーに留学。帰国後、大阪支店長・営業局長などを歴任。44年(1911)横浜正金銀行に入り、頭取を経て、大正8年(1919)に日銀総裁に就任した。12年(1923)に山本権兵衛内閣の蔵相となり、翌年貴族院議員に勅選。昭和2年(1927)高橋是清蔵相の下で再び日銀総裁となる。4年(1929)浜口雄幸内閣の蔵相となり、金解禁を実施。6年(1931)に辞任後、民政党総務となるが、血盟団事件で暗殺された。
キーワード | 実業家, 政治家 |
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井上 準之助 (いのうえ じゅんのすけ)

氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 井上 準之助 (いのうえ じゅんのすけ) 大正 8. 3.13(一度目、第9代)昭和 2. 5.10(二度目、第11代) 大正12. 9. 2(一度目、第9代)昭和 3. 6.12(二度目、第11代) 大分県 |
9代目にして11代目の日本銀行総裁である井上準之助は、明治2年3月に大分県に生まれました。高山樗牛と並んで仙台第二高等中学校(二校の前身)の二秀才とうたわれるなど、若い時分からその名を轟かせたと言われています。東京帝国大学を卒業すると同時に日本銀行に入行し、38歳という若さで営業局長を経験、大正8年に第9代総裁に就任しました。日本銀行はえぬき総裁の第1号でした。 総裁在職期間中は、断続的に生じる恐慌などに対して救済融資を実行したほか、手形割引市場の育成にも果敢に取り組みました。また、大蔵大臣として入閣してからは、信念を持って金輸出解禁に尽力し、全国各地を歩いて国民の協力を求めるなど、当時としては珍しく世間に対してPR活動を行なった人でもありました。 しかしながら、金輸出解禁と併せて財政緊縮を中心とするデフレーション政策を断行したことが、彼をして悲劇に至らしめ、昭和7年、総選挙の応援演説に行く途中凶手に倒れてその生涯を終えました。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1997年冬季号)』) |
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