『笑点』立ち上げ
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1966年5月15日、『笑点』(日本テレビ)が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。後に、『笑点』放送100回記念放送では桂歌丸と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。 初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『いつみても波瀾万丈』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという。落語ではなく敢えて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ。」 との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で、隔週金曜深夜に放送された番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、後にどちらとも談志に統一された。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた。しかし視聴率が伸び悩み、またこれに伴い、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、最終的には暫時的な新レギュラー期間を挟んで、談志自身が降板を余儀なくされた。なお、歴代笑点の司会者で(就任時点で)落語協会に所属していた人物は、現在まで談志のみである。 談志は降板後も特別番組の時には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置き、そのまま他界した。番組で不定期に行われている『真打昇進披露口上』は立川志の輔の真打昇進時(1990年6月3日放送)が唯一の出演例となった。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという。 一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年 - 2003年頃には『特冊新鮮組』(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年の元日に日本テレビで放送された『同名番組』とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『談志の遺言』(TBSラジオの番組)には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。
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