『摂政マリーの至福』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:04 UTC 版)
「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「『摂政マリーの至福』」の解説
『摂政マリーの至福』はその制作経緯から有名な作品となっている。『マリー・ド・メディシスの生涯』の他の作品はすべてアントウェルペンのルーベンスの工房で制作されたが、この『摂政マリーの至福』だけは、デザインから完成にいたるまでルーベンスがフランスで手掛けた。すでにルーベンスは『摂政マリーの至福』の前に、ルイ13世によるマリーのパリ追放を主題とした作品を完成させていた。しかしながらこの作品が宮中で大きな論争を巻き起こしたために、代替となる新たな作品を完成する必要に迫られたルーベンスが新たに描き直したのがこの絵画である。『摂政マリーの至福』が完成したのは1625年で、『マリー・ド・メディシスの生涯』の連作の中で最後に完成した作品となっている。 描かれているマリーは正義の女神に仮託して描かれ、周囲には古代神話の主要な神々が付き従っている。キューピッド、ミネルヴァ、プルーデンス、アブンダンティア、2柱のファマらがそれぞれの伝統的な象徴物とともに表現されている。そして神々は自らの象徴物、キューピッドは矢、プルーデンスは蛇の形状をした賢明、アブンダンティアはヤギの角をマリーに授けている。兜と盾を身に着けてマリーの左肩近くに立つ知恵の女神ミネルヴァは、マリーの摂政時代が優れたものだったことを示唆している。鎌を持つ時の神サトゥルヌスはフランスの将来を導くものとして描かれ、ファマはその先触れとしてトランペットを手にしている。画面下部の4人のプットの前で打ち倒されているのは、羨望、無知、悪徳が擬人化されたもので、『摂政マリーの至福』にも『マリー・ド・メディシスの生涯』の他の作品と同様に、極めて多くの寓意や象徴がちりばめられた作品になっている。 『摂政マリーの至福』は『マリー・ド・メディシスの生涯』の中でも解釈が容易で分かりやすい作品と言えるが、それでもいくつかの点で議論になってきた。この作品はマリーを正義の女神に例えて賛美した絵画ではなく、「神々が世界を律していた黄金時代、すなわちユースティティアが地上に存在していた時代への回帰」がこの作品の主題であると解釈する説がある。この説はルーベンスが残した「この作品の主題は、フランス王国の特定の事象に言及したものではない」という記録に依っている。この作品に描かれている「市民の冠 (corona civica)」だとされるオークの花冠のような数点の象徴物は、当時のフランスが専制君主に隷属させられている国だと見なされていたことを意味する。さらに黄金時代を統治していたサトゥルヌスがこの作品に描かれていることもこの解釈を示唆しているかのようであり、ルーベンスも黄金時代というテーマを意識していたことはほぼ確実だと言われる。しかしながら、おそらくはこの作品の制作をめぐる一連の騒ぎが原因で、ルーベンスは1625年5月13日に友人のド・ペーレスクに送った重要な書簡が存在している。 王太后(マリー)がフランスを追放された場面を描いた作品が撤去されたため、私(ルーベンス)は優雅なるフランス王国を主題にした、まったく新しい作品を描きました。科学と芸術の再生をふんだんに盛り込み、正義の天秤を持ってこの世界を注意深く公正に保とうとする、輝く玉座に坐した優雅な王太后を描いた絵画です。 ルーベンスが急遽『摂政マリーの至福』を描かなければならなかったこと、ド・ペーレスクへの書簡に黄金時代に言及した文言がないこと、マリーを正義の女神に仮託した絵画作品が当時数点描かれていたことから、ほとんどの研究者から『摂政マリーの至福』は単なる寓意画であり、これはルーベンスの作風と『マリー・ド・メディシスの生涯』の他作品との関連性からも確実であると考えられている。 ド・ペーレスクへの書簡に記されているマリーのパリ追放を描いた作品が撤去されたのは、マリーの「摂政時代の幸福」が当時支持されていたために、ルーベンスは書簡に記したようなより無害な主題の作品を描かねばならなかったと考えられている。ルーベンスは書簡でこの作品についてさらに言及している。 この作品は政治的な主題を扱ったものでも、個人的な業績を扱ったものでもありません。(マリーの)摂政時代は高く称賛されてきました。私が任された仕事は、スキャンダルや不満の声につながるような主題を持つ絵画制作ではなかったのです。
※この「『摂政マリーの至福』」の解説は、「マリー・ド・メディシスの生涯」の解説の一部です。
「『摂政マリーの至福』」を含む「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事については、「マリー・ド・メディシスの生涯」の概要を参照ください。
- 『摂政マリーの至福』のページへのリンク