『ワシントン・ポスト』の買収
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「ユージン・メイヤー」の記事における「『ワシントン・ポスト』の買収」の解説
1929年、メイヤーは『ワシントン・ポスト』の買収を500万ドルで提案したが、断られた。 1933年6月、メイヤーは、公売処分に出されていた『ワシントン・ポスト』を発行するワシントン・ポスト・カンパニー(以下「ポスト社」)の株式を82万5千ドルで購入した。ポスト社は、オーナーのエドワード・ビール・マクレーン(英語版)の浪費癖のため、世界恐慌のときに破産していた。メイヤーは、その3週間前にFRB議長を辞任したばかりで、出版業の経営の経験はなかった。それにもかかわらず、「新聞王」ウィリアム・ランドルフ・ハーストをはじめとする他の入札者よりもはるかに高い200万ドルもの金額を、ポスト社の落札のために用意していたのである。メイヤーは匿名で入札に参加し、入札会場には顔を出さなかった。メイヤーの娘のキャサリンでさえポスト社の落札者の名前を知らず、何週間も憶測が飛び交った後、6月13日にようやく全米の新聞でその名前が明らかにされた。 メイヤーは報道機関に対する声明の中で、ポスト社の改善を誓い、独立して運営することを主張した。また、「いかなる個人・団体・組織の影響も受けずに」、自分自身の力でポスト社を買収したとも述べた。この発言は、共和党員として有名なメイヤーがポスト社を手に入れたのは、『ワシントン・ポスト』に共和党の意見を代弁させるためだという噂を否定するためだった。この買収に対する各報道機関の反応は好意的で、他の新聞社は『ワシントン・ポスト』が廃業せず、首都ワシントンD.C.からの報道を続けることを歓迎していた。共和党系の新聞『ボストン・ヘラルド』は、社説でこの買収を「ジャーナリズムにとっての朗報」と賞賛した。その社説では、メイヤーが共和党の立場に立った紙面作りを実際にすることを期待する一方で、彼が「どの政党や指導者の奴隷的な支持者でもない」ようであるため、おそらくそうはならないだろうと認め、彼のリーダーシップの下で『ワシントン・ポスト』は「厳しく、独立した、誰も無視できない新聞」になるだろうとした。 実際のところ、メイヤーはいくつかの場面で共和党の側に立った。メイヤーはルーズベルト大統領のニューディール政策に反対しており、それは『ワシントン・ポスト』の社説の姿勢だけでなく、特に全国復興庁(NRA)に関する報道にも表れていた。メイヤーは偽名で社説的なニュース記事を書いたこともある。 それから20年間、メイヤーは何百万ドルもの私財を投じて、赤字の新聞社を支えながら、その新聞の質の向上に力を注いだ。1950年代になると、ようやく安定した利益が出るようになり、優れた報道や社説が評価されるようになってきた。メイヤーは出版者として、時折、記事を寄稿することもあった。在米イギリス大使ロージアン侯爵(英語版)との個人的な付き合いが、エドワード8世とウォリス・シンプソンの関係のスクープにつながった。 第二次世界大戦後の1946年6月、ハリー・S・トルーマン大統領は、当時70歳だったメイヤーを世界銀行グループの初代総裁に指名した。メイヤーは、女壻のフィル・グラハムに『ワシントン・ポスト』発行人の職を継承した。半年後に世界銀行総裁を辞任し、ポスト社に戻って会長を務めた。 1959年、ニューヨーク州マウント・キスコ(英語版)でポスト社会長在職のまま亡くなった。
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