『マージェリー・ケンプの書』
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「マージェリー・ケンプ」の記事における「『マージェリー・ケンプの書』」の解説
ケンプの生涯でわかっていることは、ほぼこの本による。1430年代初頭、ケンプは文盲だったが霊的自伝を書こうと決心した。 序文でその経緯を述べ、ドイツ在住のイングランド人を書記としたが、彼は作品の完成前に死去した上、書いたものは他の人々に読めなかったとする。この人物はおそらく、長男ジョン・ケンプだろう。その後、1436年7月23日に彼女は地元の司祭(おそらく聴罪司祭ロバート・スプリングゴールド)に執筆を再開するよう説得し、1438年4月28日に1431~4年を扱う部分の追加が始まった。 『マージェリー・ケンプの書』冒頭は初めての子どもの難産で始まる。悪魔による責め苦、続くキリストの出現を描いた後、ケンプは2つの家内工業を始めた。醸造業と製粉所である(どちらも中世では女性が家を拠点に行う仕事だった)。どちらも間もなく失敗した。信仰をさらに深めようとしたが、数年にわたって性的快楽と社会的嫉妬という試練を受けた。最終的には世俗の仕事をやめ、初期の幻視で求められるのを感じた霊的召喚に全面的に専念することにした。神に完全に生を委ねようと励む中、1413年夏には夫に貞潔な婚姻を提案した。『マージェリー・ケンプの書』第15章は禁欲的生活を送る決意を述べるが、第21章では再び妊娠している。末子となる子の出産は巡礼中だったと考えられる。後に、イングランド帰国時には子どもを連れていたと語る。子どもの受胎が禁欲前か、あるいは一時的な中断があったのかは不明である。 1413年のどの時点かでケンプはノリッジに住む女性神秘家、隠修女ノリッジのジュリアンを庵に訪問した。その記述によると、ケンプはジュリアンを訪ね、そこに数日間滞在したという。彼女は幻視と神との会話がジュリアンに認められるよう、特に熱心に努めた。テクストはジュリアンがケンプの啓示を認め、その宗教性は真正だと保証したとする。しかしながら、ジュリアンはケンプに「神への崇拝と同志であるキリスト教徒の利益に応じて経験を評価するよう」 指示し、注意を促した。ジュリアンはまた、ケンプの涙は魂に聖霊が宿る物的証拠だと保証した。ケンプはまた、大陸の聖なる女性と同じような方法で、その涙は神からの賜物だと認められた。第62章で、ケンプは自らの絶え間ない涙を厳しく批判していた托鉢修道士との出来事を述べる。この托鉢修道会士はワニーのマリについて読んだことを受け入れ、ケンプの涙も同じく真正の献身の結果だと理解するようになった 。 本の完成がわかっている1438年、マージェリー・ケンプと思しきMargueria Kempe がリンのトリニティ・ギルドに加入を許された。マージェリーと同一人物かは不明であり、没した場所や時期も不明である。
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