「移民の多い公営住宅地帯」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:59 UTC 版)
「バンリュー」の記事における「「移民の多い公営住宅地帯」」の解説
1970年代から1980年代ごろから、「バンリュー(郊外)」という言葉は、パリなどの大都市のはずれにある、旧植民地からの移民(アルジェリアやモロッコからのアラブ人、サハラ以南からの黒人)が主に住む低所得世帯用公営住宅団地を婉曲に指して使うことが多くなった。こうしたフランス語の用法はフランスに限られ、カナダのケベック州やアフリカのフランス語圏では使われない。 フランスは第二次世界大戦からの復興過程で多くの移民を旧植民地から受け入れ、初めのうちはビドンヴィル(掘立て小屋のバラック集落)に住まわせていたが、1960年代以降、パリ東部をはじめ全国の大都市のバンリューに、移民労働者に安価な住宅を大量に提供するために団地群が建設された。しかしこれらの団地は仮住まい用の簡素なつくりで、一時滞在用なので交通の便利性は考慮されず、都心部からは隔離されたような位置にあった。 石油ショックによって移民を必要とした好景気は終わり、1980年代以降、フランスの若い世代全体に新規の求職がない状態が続いた。とりわけ人種の違う移民2、3世の若者は職を得ることが困難で失業率が増加した。非行化が進む移民2、3世の少年達によって軽犯罪が増加した結果、バンリューの団地はフランス社会から貧困で危険な地域だと見られるようになった。またバンリューの少年達は各地で増加する軽犯罪や落書き、野蛮な振る舞いの主要因とみなされるようになった。こうした犯罪増加と移民への危険視をうけて、ジャン=マリー・ル・ペン率いる極右政党「国民戦線」は、法律や刑罰の厳格な執行や、移民の制限という綱領をかかげ、1990年代初頭にかけて躍進した。1990年代からバンリュー問題は社会問題となり、特にバンリューの若者の荒廃したありようを描いた映画『憎しみ』(1995年)はフランス社会に衝撃を与えた。 2005年10月27日には、パリの北東部のバンリュー、クリシー=ス=ボワで、同地の変電所で警官から隠れようとした二人のティーンエイジャーが感電死したことをきっかけに、数百人の青少年と官憲による大規模な衝突や暴動が発生した。これを発端とする2005年パリ郊外暴動事件は、11月以降フランス全土に広がって政府を危機に陥れた。
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