「王配」としての屈辱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:09 UTC 版)
「フィリップ (エディンバラ公)」の記事における「「王配」としての屈辱」の解説
妻の即位は、フィリップの立場を激変させた。フィリップ自身は妻である女王を支えようと考えていたが、姉たちがドイツに嫁したフィリップを快く思わないウィンストン・チャーチル首相や枢密院の重鎮たちは、事あるごとにフィリップを排除しようとした。 新女王夫妻は、ジョージ6世崩御後ただちにロンドンへ戻り、2月8日に即位後初の枢密顧問会議を招集した際、フィリップはセント・ジェームズ宮殿に正門から入ることが許されなかった。チャーチル首相以下重臣らが集う玉座の間には、「憲法上にない存在」であるとしてフィリップが新女王に同伴することも認められなかった。そして、枢密院議員の集う会議室にも、フィリップがジョージ6世の崩御直前に議員に任ぜられたことを知らない係員に入室を阻止されそうになった。 王族の席次は、エリザベス王太后やエリザベスの叔父グロスター公ヘンリー…と続き、フィリップの席次は女王の配偶者であるにもかかわらず30番目であった。これを改めさせるのに、8か月要した。 フィリップにはヴィクトリア女王の夫アルバート王配とは異なり、『王配(Prince Consort)』の称号が与えられなかった。アルバートは『王配』として機密書類を閲覧でき、女王と家臣の良き仲介役として活躍していた。 エリザベス2世女王自身は、アルバート王配同様に『Prince Consort』を授けたいと考えていたが、チャーチルら重臣の反対に遭い、また女王自身がフィリップの短気な性格を懸念して押し切ることもできなかったため、フィリップには機密書類閲覧権もない。 翌1953年6月2日、ウェストミンスター寺院で戴冠式(英語版)が執り行われた。夫妻は同年11月から翌1954年5月にかけ、コモンウェルスを巡幸した。その後も、女王と共に英連邦及び世界各国を訪問している。 1957年にエリザベス2世からPrince of the United Kingdomの称号を与えられ、それ以降は、His Royal Highness The Prince Philip, Duke of Edinburgh(エディンバラ公フィリップ王配殿下)が正式な呼称となっている。 王朝名となる女王一家の姓は「ウィンザー(Windsor)」のままであり、フィリップの姓である「マウントバッテン(Mountbatten)」に変わらなかった。その後1960年に夫妻の子孫の姓を「マウントバッテン=ウィンザー(Mountbatten-Windsor)」とすることになったものの、フィリップの屈辱的な思いは残った。フィリップ自身、怒りを込めて「王室のメンバーを生むためのアメーバでしかない」と発言したとされる。 1954年1月、ニュージーランド議会開会に臨席。フィリップは明らかに女王より下座となっている。 1957年10月、カナダ議会開会に臨席。フィリップの席は女王と対になった。 1954年、ニュージーランド、ケンブリッジにて 1957年、カナダ、オタワにて 1967年、サルフォード大学訪問
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