「爆死」の真偽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 21:09 UTC 版)
『兼見卿記』によると松永親子は切腹しまた放火した。『多聞院日記』では遺体が焼けたあとで首4つが安土城に送られている。 『大和志科』によると胴部分は達磨寺に葬られ、丁重に埋葬したのは宿敵であった筒井順慶と記載されている。 昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了 — 多聞院日記 昨日十日松永在城之シギ落城、父切腹自火、悉相果云々、 — 兼見卿記 久秀が古天明平蜘蛛に与えた破壊は太田牛一が「うちくだき」と記し、川角三郎右衛門は坂本城落城後の人々の思い出話を収録して「鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ」と記している。 さるほどに、先年松永しわざをもつて、三国かくれなき大がらん奈良の大仏殿、十月十日の夜、すでに灰燼となす。そのむくゐ、たちまち来たつて、十月十日の夜、月日じこくもかはらず、松永父子妻女一門れき〱、天守に火をかけ、平蜘蛛の釜うちくだき、やけ死に候。 — 大かうさまくんきのうち 一、後、人〱のさんだんには、是は松永殿大和のしぎ山の城にて切腹の時、矢倉下へ付け申し、佐久間右衛門手より城の内へ呼ばわりかけ申すに、ちつとも違い申さずと、人々、後に申されけるとかや。 — 川角太閤記 言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり。 — 川角太閤記 久秀の最期を爆死だとする巷説として、昭和時代の歴史学者桑田忠親が著した一般向け歴史書内で確認でき、発表年順に 「自決」 「自害」 「切腹したのちに、自分の首を鎖で茶釜にくくりつけ、火薬でもって、木葉微塵に打ち砕かせた」 「久秀は、天をあおいで嘆息し、天下の逸品「平蜘蛛」の茶釜を首につるし、火薬に点火して、茶釜もろとも自爆した」 と表現が変わっており、切腹が自爆へと変化している。上記のように『川角太閤記』には、久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬によって微塵に砕けたことが記されている。おそらくこの逸話が徐々に盛り付けされて、久秀の爆死伝説が定着していったと思われる。 しかし、『多聞院日記』では久秀自害の翌日、安土城へ「首四ツ」が運ばれている。この首級に久秀のものが含まれているとするなら、久秀は火薬で砕け散ったという話とは矛盾が生じる。以上のことから松永氏の研究家天野忠幸は「平蜘蛛の釜や信貴山城と共に爆死したというのは、第二次世界大戦後に生まれた俗説である。」と結論付けている。 この戦いは筒井順慶の活躍が目ざましかった。地元であり、松永氏とは仇敵とも言える間柄であったという事もある。順慶は着陣以後何度か家臣達と戦評定を行っている。これは信長より守護を拝命し武人として先陣の名誉を承った以上、無為の日々を送っていては不忠で臆したことになり、なんとしても城を攻め落とす必要があったのではないかとされている。
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