「民主主義科学」から「国民的科学」へ
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「国民的歴史学運動」の記事における「「民主主義科学」から「国民的科学」へ」の解説
第二次世界大戦後、アジア各地でナショナリズムが大いに盛り上がり、1949年には民族解放と社会革命とを結合しつつ中華人民共和国が成立した。これを受けてアメリカ合衆国の対日占領政策が、レッドパージや警察予備隊の創設司令、日米安全保障条約による米軍駐留継続など、いわゆる「逆コース路線」へ転換することとなる。 占領政策の転換は多くの民衆や知識人の中に、日本が合衆国の支配下に置かれる恐れを抱かしめるに至る。民科も1950年代に入ると、1951年5月開催の第6回大会では「大衆のために奉仕し、大衆から学ぶ学風の確立」を、1952年5月の第7回大会では「国民的科学の創造と普及」をそれぞれ決議した。民科が従来の「民主主義科学」路線から「国民的科学」路線へと舵を切り、民族性を前面に押し出したのはこの時期のことであった。 「国民的科学の創造と普及」という運動方針は、米日支配層を打ち倒す民族解放運動を目的とする科学を進めようとする歴史部会の主張と、科学者は国民の中に入り込み、国民と共に新たな科学を創るべきとする地団研部会の主張とが結び付くことで形成されている。 なお「国民的科学」という用語は、当時民科書記局に属していた石母田が、1952年1月民科本部に提出した意見書が初出とされる。その中で石母田は、サンフランシスコ条約下の日本がアメリカから抑圧を受けており、民族解放のためには科学や科学運動が不可欠で、それが「国民的科学の創造によってのみ達成される」と主張している。さらに、民族解放の成就のためには知識人が「大衆の中にはいること」と「学問的な創造活動」の2つを統一すべしと説いている。 ただし、「国民的科学」の内容については意見書では明らかにされず、石母田も同時期次のように述べている。 (国民的科学の)概念と定義を精密に下してからではなく、大きな方向と目標を指ししめすこと、それにもとづいて、現在までのわれわれの経験を基礎にして明日から実践すべき方針を出し、その実践の中で定義と概念を豊かにし、正確にしてゆくことが大切であります。 以後、「国民的科学の創造と普及」という標語は「民族解放と民主革命という目的」に沿いながら、政治色を帯びつつ展開してゆく。
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