「民主主義科学」から「国民的科学」へとは? わかりやすく解説

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「民主主義科学」から「国民的科学」へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 05:12 UTC 版)

国民的歴史学運動」の記事における「「民主主義科学」から「国民的科学」へ」の解説

第二次世界大戦後アジア各地ナショナリズム大い盛り上がり1949年には民族解放社会革命とを結合しつつ中華人民共和国成立した。これを受けてアメリカ合衆国対日占領政策が、レッドパージ警察予備隊創設司令日米安全保障条約による米軍駐留継続など、いわゆる逆コース路線」へ転換することとなる。 占領政策転換多く民衆知識人中に日本合衆国支配下置かれる恐れを抱かしめるに至る。民科1950年代に入ると、1951年5月開催第6回大会では「大衆のために奉仕し大衆から学ぶ学風確立」を、1952年5月第7回大会では「国民的科学創造普及」をそれぞれ決議した民科従来の「民主主義科学路線から「国民的科学路線へと舵を切り、民族性前面押し出したのはこの時期のことであった。 「国民的科学創造普及」という運動方針は、米日支配層打ち倒す民族解放運動目的とする科学進めようとする歴史部会主張と、科学者国民中に入り込み国民と共に新たな科学創るきとする地団研部会主張とが結び付くことで形成されている。 なお「国民的科学」という用語は、当時民科書記局属していた石母田が、1952年1月民科本部提出した意見書初出とされるその中で石母田は、サンフランシスコ条約下の日本アメリカから抑圧受けており、民族解放のためには科学科学運動不可欠で、それが「国民的科学創造によってのみ達成される」と主張している。さらに、民族解放成就のためには知識人が「大衆中にはいること」と「学問的な創造活動」の2つ統一すべしと説いている。 ただし、「国民的科学」の内容について意見書では明らかにされず、石母田同時次のように述べている。 (国民的科学の)概念と定義を精密に下してからではなく大きな方向目標指ししめすこと、それにもとづいて、現在までのわれわれの経験基礎にして明日から実践すべき方針出しその実践の中で定義と概念豊かにし、正確にしてゆくことが大切であります以後、「国民的科学創造普及」という標語は「民族解放民主革命という目的」に沿いながら政治色帯びつつ展開してゆく。

※この「「民主主義科学」から「国民的科学」へ」の解説は、「国民的歴史学運動」の解説の一部です。
「「民主主義科学」から「国民的科学」へ」を含む「国民的歴史学運動」の記事については、「国民的歴史学運動」の概要を参照ください。

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