中華人民共和国によるチベット併合 中華人民共和国によるチベット併合の概要

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中華人民共和国によるチベット併合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 23:37 UTC 版)

チベット侵攻
1948年 - 1951年
場所チベット
結果 十七か条協定の締結
衝突した勢力
チベット 中華人民共和国
指揮官
ンガワン・スンラプ・ストブ
ンガプー・ンガワン・ジクメ[1]
ラル・ツェワン・ドジェ[2]
毛沢東
劉伯承
張国華
範明
部隊
チベット軍 中国人民解放軍
中国による平和解放記念碑
2001年にチベット「解放」50周年記念として設立された。

侵攻は、

  1. チベットの東北部・東部に限る侵攻(1948 - 1949)
  2. 中央チベットに及ぶ侵攻(1950 - 1951)

の二段階に分類される。

中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西藏和平解放/བོད་ཞི་བས་བཅིངས་འགྲོལ」(シーツァンホーピンチエファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている[3]

「第一段階」では、中華民国青海省馬歩芳西康省劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧[4]、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧[5]、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。

チベットおよび西側諸国では、この併合を「侵略」としているが[3]中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。

これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベット軍は中国人民解放軍に編入され(同協定第八条)、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った[6]

背景

本節では、中華人民共和国によるチベット併合に先立つチベット各地の状況を概観する。

雍正のチベット分割(1723 - 1724)・分割(1724 - 1732)以降、チベットは西藏[7]青海と、隣接する中国の各省(甘粛四川雲南)に組み込まれた地域とに3分されていた。

  • 西藏は、ガリ地方・ウー・ツァン地方・カム地方の西部などに相当。
  • 青海は、アムド地方の西部・中央部、カム地方の北部に相当。
  • その他、アムド地方の東部が甘粛省の西南部に、アムド地方の南部が四川省の西北部に、カム地方の東部が四川省の西部に、カム地方の南部が雲南省の西北部に組み込まれていた。)

青海地方の状況

1860年代の回民の大叛乱ののち、中国西北の寧夏、甘粛、陝西等の各地方、および青海はイスラム教徒馬一族の支配下に入り、辛亥革命により清朝が倒れたのちもこの状況はつづいた。中華民国北京政府青海を「将来省制を施行すべき」特別地区と位置づけ、国民政府により、東隣の河西回廊の一部とあわせて1928年に「青海省」が発足した。この間、馬一族からは馬領翼が青海弁事長官(1913-14)、馬麟が甘辺寧海鎮守使兼青海蒙蕃宣慰使(1915-28)、青海省委員(1929-38)、青海省主席(1931−33)等、馬歩芳が青海省主席(1938-1949)に就任している[8]

清国が滅亡したのち、ガンデンポタンはチベット全土の再統一をめざし、1933年には青海地方の南部(カム地方北部)の玉樹地方でチベット軍と青海軍が衝突したが、現状維持におわった。

激動のカム地方東部:「四川省の西部」から「西康省」へ

清朝の東部チベット支配

雍正のチベット分割(1724年 - 1732年)の際に、西藏青海のいずれにも組み込まれなかった各地の諸侯たちは、甘粛・四川・雲南など隣接する中国の各省に分属し、兵部を通じて土司の称号を与えられ、所領の安堵をうけることとなった。

19世紀なかば、ニャロン地方の領主グンポナムギャルが急速に勃興し、四川省に所属する諸侯を制圧し、清朝に対し册封と、征服地に対する支配権の確認を求めた。清の朝廷はグンポナムギャルを阻止し、清を宗主として仰ぐ諸侯を救援せねばならない立場にあるためこれを拒否したが、太平天国の乱や英仏とのトラブルをかかえており、グンポナムギャルをとがめて諸侯を旧領に復帰させる力はなく、解決をガンデンポタンに委ねた。

ガンデンポタン軍はディチュ河を東に越えてカム地方東部に侵攻、数年をかけてグンポナムギャルを追いつめ、1863年にグンポナムギャルの本拠ニャロンを攻略、グンポナムギャルに追われていた諸侯を旧領に復帰させた。清朝は、「四川省内の戦乱」を鎮圧したガンデンポタンに戦費を支払う余裕もなかったため、その代償として、ガンデンポタンによるニャロンの領有と近隣諸侯に対する支配権をみとめた。ガンデンポタンはニャロン・チーキャプ(総督府)を設置し、チーキャプ(総督)を派遣してこれを統治することとなった[9]

清国は、中国における諸反乱をほぼ収束させると、清末新制に着手した。「清末新制」は、清国における国家体制の近代化であるが、チベット、モンゴルなどに対しては、従来中国とは別個の法制・行政制度のもと、の長や土司職にある諸侯たち、ガンデンポタンなど、その民族自身による統治に委ねてきた体制を根本的に覆し、を設けて中国に組み込むことを目指す、というものであった(東トルキスタンでは、すでに1878年に省制が施行され、行政機構の中国化が達成されていた)。

四川総督趙爾豊は、1905年、蜀軍(四川軍)を率いてカム地方の東部に侵攻、諸侯を軍事制圧したのち取り潰しを宣言しつつ西進、ニャロン・チーキャプを転覆してガンデンポタンの管轄領域の奥深くまで侵入し、1910年にはラサを占領するにいたった。ガンデンポタンの長ダライ・ラマ13世はインドへ逃れた。趙はカム地方の諸侯やガンデンポタンによる支配を排し、従来ガンデンポタンの統治下にあったカム地方西部とカム地方の東部をあわせた領域に「西康省」を、中央チベットには「西蔵省」を設けようと試みた。しかしながら1911年、中国で辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところを革命派に殺害され、カム地方の東端からラサにいたるまでのチベット各地に趙が配置した軍事・行政機構は、チベット側の反撃により徐々に切り崩されていくこととなる。

「西康省」をめぐるチベット政府ガンデンポタンと中華民国歴代政府の抗争

チベット政府ガンデンポタンは、清国の滅亡にともなう中国側の混乱に乗じて反攻を開始、1913年にラサを奪還して独立を宣言するとともに、1917年 - 1918年1931年 - 1933年にかけて、中華民国と戦火を交え、ディチュ河(金沙江)に至るまでのカム地方の西部に対する支配権を徐々に回復していった。

チベットと中国は、それぞれカム地方の全域が自国の管轄下にあるという建前の地方行政単位をもうけた。チベットは、カム地方西部の中心都市チャムドに「ドカム総督府」を置き、閣僚級のアムド・カム総督(ドメーチーキャプ)を配して統治にあたらせた。一方、中華民国は、発足以来、カム地方に対して趙爾豊が構想した西康省を設置することができず、ガンデンポタンが実効支配する地域もふくめて、名義の上で川辺特別区と称していたが、国民政府時代の1939年、実効支配の及ぼばないディチュ河以西をも名目上の範囲として、西康省を設置した。川辺地区もしくは西康省の歴代長官は四川省に縁故のあるものたちが就任し、南京国民政府の西康建省委員会委員長(任1934-39)や初代の西康建省政府主席(1939-49)は、四川省政府主席から転じた劉文輝がつとめた。

中央チベット(西藏)の状況

ダライラマとガンデンポタン

1637年より42年にかけて、ダライ・ラマを信仰するグシ・ハン[10]がチベットを征服、ヤルンツァンポ河流域が当時のダライラマ五世(1618-83,位1622−96)[11]寄進され、ダライラマの財務監(チャンズーパ)ソナム・ラプテンがデシーに任じられてその統治・管理にあたった。ガンデンポタンはこの寄進により、ダライラマ領の統治機関となった。ダライラマは、自身の財務監(チャンズーパ)であるデシーの任命権を保有したほか、チベット各地の諸侯に対してグシハン一族とともに所領の安堵を行い、ゲルク派寺院の人事権、その他の宗派の管長の地位の認定などをおこない、政治・宗教の権力・権威の頂点に立つようになった[12][13]。さらにはハルハオイラト本国、ダライラマ政権の樹立に貢献した青海ホショトをはじめとする青海オイラトなどチベット内外のモンゴル系王公たちにハンホンタイジ・タイジ等の称号を授与し、清朝もダライラマ5世が彼らに授与した称号をそのまま使用するなど、チベットの枠をこえ、チベット仏教圏諸国の権威の頂点に位置するようになった[13]

雍正のチベット分割ののち、清朝はタンラ山脈ディチュ河を結ぶ線の南方に位置する諸侯の支配権をあらたに「ダライラマに賞給」する一方で、この線の北方に位置するチベット人諸侯に対する領主権の認定権や青海オイラト人王公に対する称号の授与権などの制限をはかった[13]が、ダライラマの宗教的権威はその後もおとろえず、チベット・モンゴルにまたがるチベット仏教界の頂点に位置しつづけた[14]

ガンデンポタンと清朝との関係

1642年のダライラマ政権の発足以来、ダライラマ政権の3種の首脳であるダライ・ラマ、チベット・ハン、デシーの地位の認定は、チベットの内部[15]で決定されており、清朝による関与は、これらの地位についた有力人物の地位を追認する形で称号や印章をおくるにとどまっていた[13]

清朝は、1706年-20年の「ダライラマ5世の後継者をめぐるグシ・ハン一族の内紛」、1727年-28年の「ウー・ツァンの内戦」、1750年-51年の「ダライバートルの」、1788 年-89年,1791年-92年の 「清・ネパール戦争」など、チベットで内乱や外患が生ずるごとに介入してそのプレゼンスを強めていった。しかし19世紀にはいると、一転してチベットを支援する余裕をなくし、1840年のドーグラー戦争、1855年−56年のチベット・ネパール戦争は、チベット単独でカシミールネパールなどの外敵と戦って不利な講和を余儀なくされ、清朝皇帝の「転輪聖王たる文殊皇帝」としての権威は失墜していった[要出典]

1903年-04年の、英領インド軍を率いたフランシス・ヤングハズバンド武装使節団の侵攻の際、当時のダライラマ13世は北京におもむいて清朝に支援を求めたが思うような助力は得られず、逆に趙爾豊率いる蜀軍の侵攻、ラサ制圧(1905-1910)をみるにいたり、チベットは従来清朝との間に存在した「チョユンの関係(施主と福田の関係)」は完全に終焉を迎えたと判断し、「清朝からの独立」を模索するようになる[要出典]

ガンデンポタンと中華民国の北京政府・国民政府との関係

20世紀前半のチベット情勢

チベットはユーラシア大陸の中央部に位置する険しいチベット高原に存在し、独自の文化圏を築いていた。しかし、清朝の時代の一時期に、清国軍の駐屯を受け入れて保護国となった。また19世紀にはイギリスの勢力下にあり、1904年イギリス軍はラサに駐屯していた。辛亥革命後にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた[16]。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。

当時のチベットの指導者はダライ・ラマ14世であった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。[17]


  1. ^ Mackerras, Colin. Yorke, Amanda. The Cambridge Handbook of Contemporary China. [1991]. Cambridge University Press. ISBN 0-521-38755-8. p.100.
  2. ^ Goldstein, Melvyn C. (1991). A history of modern Tibet, 1913-1951, the demise of the lamaist state. University of California Press. p. 639 
  3. ^ a b c d Rinpoche, Samdhong. Roebert, Donovan. The en:14th Dalai Lama. [2006] (2006). Samdhong Rinpoche: Uncompromising Truth for a Compromised World : Tibetan Buddhism and Today's World. World Wisdom, Inc. ISBN 1933316209. pg 116-117
  4. ^ 趙海峰,1991,pp.37-50。楊超,1991,pp.40-42。
  5. ^ 丹増・張向明,1991,pp.121-186。
  6. ^ a b Goldstein, M.C., "A History of Modern Tibet", p812-813
  7. ^ 1642年に発足したガンデンポタンが統治。グシ・ハンダライラマ五世に寄進したヤルンツァンポ河流域に加え、雍正のチベット分割の際に、タンラ山脈ディチュ河(金沙江)を結ぶ線の南西側に位置する地域があらたにガンデンポタンの管轄下に加えられ、西藏という地域的枠組みが成立。典拠・詳細は雍正のチベット分割および青海を参照。
  8. ^ 郭卿友,1990,pp.153,793
  9. ^ 小林亮介,2004、Teichman,1922
  10. ^ この当時、オイラトの内乱により早逝した兄バイバガスにかわりホショト部の首長となり、オイラト部族連合の盟主もつとめていた。宮脇, 1995
  11. ^ 在位年が没後にもかかっているのは、ダライラマ五世の死は、後事を託されたデシー・三ギェギャムツォにより十数年秘匿されたことによる。
  12. ^ 山口,1987,1992
  13. ^ a b c d 石濱,2001
  14. ^ 多田等観,1942,pp.41-45
  15. ^ ダライラマ位はグシハン一族とゲルク派教団による認定、チベット=ハン位はグシ・ハン一族の長子相続でダライラマによる認定、デシー位はダライラマによる任命(山口,1987,1992、石濱,2001)
  16. ^ 佐島直子編『現代安全保障用語辞典』(信山社出版、2004年)464-465頁のチベットの反乱の項目
  17. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)384-385頁
  18. ^ ロラン・デエ p.313
  19. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)386頁
  20. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』
  21. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.173
  22. ^ Xinhuanet.com. "Xinhuanet.com." 人民解放軍解放西藏. Retrieved on 2008-03-18.
  23. ^ Scholar.ilib.cn. "Scholar.ilib.cn." 1950 tibet. Retrieved on 2008-03-18.
  24. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)387頁
  25. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.55
  26. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.60
  27. ^ a b c d 毛利和子 1998, p. 256.
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  31. ^ ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)388-390頁
  32. ^ A・T・グルンフェルド『現代チベットの歩み』東方書店,1994年,152頁
  33. ^ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
  34. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.66
  35. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.120
  36. ^ a b c d ロラン・デエ p.315
  37. ^ a b ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.119
  38. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.78
  39. ^ ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.121
  40. ^ a b c 毛利和子 1998, p. 257.
  41. ^ ロラン・デエ p.320。
  42. ^ 毛利和子 1998, pp. 257–258.
  43. ^ 對於西藏的現行政治制度,中央不予變更
  44. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.81
  45. ^ ロラン・デエ p.318
  46. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.82
  47. ^ a b 毛利和子 1998, p. 259.
  48. ^ 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.84
  49. ^ a b 『中国はいかにチベットを侵略したか』p.86
  50. ^ Gyatso, Tenzin, Dalai Lama XIV, interview, 25 July 1981.
  51. ^ ユン・チアン『マオ』下巻p.218
  52. ^ 毛利和子 1998, p. 260.
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  54. ^ マイケル・ダナム 2006, p. 146.
  55. ^ 毛利和子 1998, p. 262.
  56. ^ 毛利和子 1998, p. 263.
  57. ^ マッシモ・イントロヴィーニャ (2018年12月13日). “1959年のラサの戦いはどのようにして起きたのか - 特集”. Bitter Winter (日本語). 2019年4月26日閲覧。
  58. ^ ユン・チアン 下p.216
  59. ^ a b ロラン・デエ 2005, p. 323.
  60. ^ ジョン・F・アドベン 1991, p. 66.
  61. ^ マイケル・ダナム 2006, p. 118.
  62. ^ ペマ・ギャルポ 1988, p. 127.


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