「民主改革」からカム反乱へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:32 UTC 版)
「中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「「民主改革」からカム反乱へ」の解説
一方、漢人の東チベット地域への入植が進められ、1954年に農業改革、1955年7月に土地共有化の促進が「民主改革」として着手された。この「民主改革」とは共産主義思想にもとづいて領主や寺院や富裕層からの土地財産が再分配を目的としたうえうで、共産党に没収された。寺院財産の没収を契機とし、翌1956年から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発する。 このような中国による東チベット地域の支配に対して、東チベットの住民の多くは中国の政策に対して反抗的となった。中国はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していった。中国に不満を持つ東チベット人の一部は、テンスン・ランタン・マガル(国民防衛義勇軍)を作って反抗しようとした。 これ以降の経緯については、カム反乱を参照。
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