窟とは? わかりやすく解説

いわ‐や〔いは‐〕【岩屋/石屋/窟】


くつ【窟】

読み方:くつ

常用漢字] [音]クツ(慣) [訓]いわや

ほらあな。いわや。「岩窟石窟仙窟洞窟

人の集まったすみか。かくれが。「巣窟魔窟貧民窟

集まるところ。「理窟


やぐら

( から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 19:23 UTC 版)

やぐらは、現在の神奈川県鎌倉市にあたる相模国鎌倉とその周辺地域で、鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて造られ使用された、横穴式の納骨窟または供養堂である。鎌倉市教育委員会によると、3000基以上が確認されている[2]。現在では土砂崩れや宅地開発で破壊されたものも多く、残ったやぐらも風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華であった。火葬人骨のほか多くの副葬品が納められていた。


注釈

  1. ^ 塋域(えいいき)とは墓地・墓場のこと。
  2. ^ 第七代執権北条政村が構えた北条氏常盤亭跡にも法華堂跡とやぐらがある。鎌倉の寺院と最上流の武家屋敷の多くは一つの谷戸を占有しており、その切り開かれた部分(平場)の一番奥の方にあることが多い。
  3. ^ 東林寺跡やぐらの例や、後に触れる理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらの例などはあるが、数は少ない。
  4. ^ 龕(がん)とは元々は仏像を安置するための岩壁をくり抜いたものを指すが、棺のことも龕と呼ぶ(菊池章太2011 p.128-129)。やぐらそのものも龕ともいえるがこの場合はそのやぐらの中に設けられた納骨穴を指す。
  5. ^ 例えば南都七大寺の一つ元興寺の極楽坊本堂(極楽堂、鎌倉時代・国宝)では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていた。中尊寺金色堂(平安時代後期)でも祭壇の下は奥州藤原氏三代(実四代)ながら、やはり長押上にそれ以外の納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。
  6. ^ 仏教語で円形の輪
  7. ^ 埼玉県の板碑でも寺に関わるものが全体の67%にも及んでおり、石塔の共通した傾向である(水藤真2009 p.200)。これらが僧の墓ということではない。これについては「結界の地・共同墓地の形成」を参照。
  8. ^ なお、当時の宗派は現在のように固定的なものではない。特に鎌倉時代に律宗と呼ばれる西大寺系、泉涌寺系の一派は戒律を重んじる四宗兼学の総合大学のようなものである。律宗系が71%としたが、当時律宗僧と関わりのあった東密真言宗)系大慈寺や浄土宗長楽寺なども含めると更に圧倒的な比率になる。 鎌倉時代初期には台密(天台宗)系がほとんどであったが、台密系寺院関連にはやぐらはほとんど見られない。
  9. ^ 具体的な例は頼朝法華堂の東隣、義時法華堂跡とされる平場の上の、江戸時代から大江広元の墓と伝えるやぐらは奈良時代のものの再利用とみられる。
  10. ^ この籾塔形式宝篋印塔は安山岩製というが、鎌倉周辺に安山岩製の石塔や石仏で最も古いのは金沢・称名寺にある北条実泰(1263年没)夫妻再建塔もしくは北条実時(1276年没)墓塔と考えられる五輪塔である。称名寺が南都律の寺となったのは1267年(文永4年)であるので実泰夫妻再建塔はそれ以降に作られたものということになる。現在鎌倉にある安山岩の宝篋印塔で最も古いのは安養院にあるもので1308年(徳治3年)である。
  11. ^ 板碑は秩父産の緑泥片岩で造られるため安山岩より加工しやすく、鎌倉石より風化しにくい。
  12. ^ 例えば浄光明寺のやぐらにある網引地蔵は鎌倉の石ではなく安山岩である。より具体的には、ちょうど1300年(正安2年)に忍性に従って箱根山に来た大蔵心阿がそこで宝篋印塔を完成させた。そしてその後鎌倉に定着したのが鎌倉における宝篋印塔の始まりだとされる。 ただし、五輪塔には13世紀末と見られる称名寺のものもあり、極楽寺と称名寺で様式が僅かに異なることから、西大寺(南都律)系でも複数の石工集団が居たと推測される(中世石塔の考古学 p.207 )。
  13. ^ なお「逆修四十九」の「逆修」とは生前に自分の三十三回忌までの全ての法要を行ってしまうことで、死後の追善休養の6倍の功徳があるとされていた。これが行われているということは、今日の生前墓と同じように、死ぬ前に自分のやぐらを用意しておくということも想像される。法華堂が生前は持仏堂だったようなものである。
  14. ^ 俗名の知れるものには極楽寺の忍性塔の傍らに延慶3年(1310年)の安山岩製五輪塔がある。「関弥八左衛門入道 沙弥 行真 延慶三年八月五日」と銘があるので武士と思われる(鎌倉市史・考古編 pp.404-405)。この例のように仮に俗名が判明してもよほど有名で、古文書の各所に出てくる者でなければどのような者であるのかは判明しない。なおこれはやぐらの例ではない。
  15. ^ 例えば十二所に大江広元塔と伝えるものがあるが、江戸時代後期に毛利家の家老らが調べにきたとき、土地の者は後の煩わしさを避けるために屋蓋部を谷に突き落として、そのようなものは残っていないと答えたと伝えている。昭和になって落とされた部分も集めて積み重ねられたが、そちらが本物かどうかは別の話で似たような話は他にもある。
  16. ^ 柳田国男は「石器を使っていた時代の人骨でも、探しているとおいおい出てくるのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べている。
  17. ^ 1077年(承保4年)9月に白河天皇の皇子が4歳で死んだとき、遺体を東山大谷に置いた。源俊房は『水左記』に「七歳のうち、尊卑ただ同じことなり」と書いており、下々の者は風葬が当然であったことを示している。ただしそれは平安時代の話で、南北朝時代の埼玉の板碑には「生年五才」の「沙弥了秀」の供養のものもある。しかしこれはほとんど例外である。更に時代が下り16世紀頃の越前一乗谷の石塔では、童子・童女(幼児ではないが未成年)がそれぞれ大人の男女の半分ぐらいまで出てくるようになる(水藤真2009 p.216)。
  18. ^ 鴨川の下流、桂川との合流地点付近で古くは「佐比河原」(さいのかわら)と呼ばれていた地である。ここは平安京の外とされている。
  19. ^ 水藤真『中世の葬送・墓制』の「『餓鬼草紙』の世界と墓の三要素」に詳しい。
  20. ^ 1226年(嘉禄2年)に六条朱雀に首を切られた男女の死体があったが見物人が集まった頃にはもう死骸は全裸で、道行く人が見るに見かねて木の枝を折って女陰を隠したという。侍従親行が悪行を繰り返し、その情婦(自分の異母姉)とともに父雅行が殺させたもので当然着物をまとっていたはずである(藤原定家明月記』嘉禄2年6月23,24日条)。
  21. ^ 西大寺律宗(南都律)の創始者叡尊に出された非人の請文に「諸人葬送の時、山野において随身せしむる所の具足(衣類その他葬具)」を非人が取る権利が記されている。東寺光明講衆と坂非人集団の葬送権をめぐる文書にも類似の記述がある。現在の感覚からは違和感はあるが、そもそも僧侶が着す袈裟の元は釈迦やその弟子の出家者が着ていた糞掃衣が元で、それらは風葬された遺体などから集めたものである。そもそも病気で死にそうになった使用人は食べ物と一緒に道に出されるという時代の話なので、現代の感覚は通用しない。
  22. ^ 「かまくらちゅう」と読み、時期によって範囲は拡大していくが、おおよそ山に囲まれた鎌倉中心部の意味であり、首都の都区部ぐらいの意味である。その内と外では法が変わる。中は幕府の直接支配であり、外はそれぞれの地頭の支配である。
  23. ^ 1277年(建治3年)の『頼基陳状』によると小袋坂で下級の僧が葬送の死体の肉を切り取っているのを発見され、龍象房に命じられたと白状云々という風聞が記されている(石井進2005 pp.101-102)。しかし、この頼基陳状には、良観忍性をあがめる龍象房が京都で人肉を食したという風説があり、鎌倉に来てさらにその噂がある僧であると書かれており、下級の僧の記述はない。しかし、人肉食がこの頃の一般の事実であれば先の『餓鬼草紙』「疾行餓鬼の図」にある女の遺体の様な、運ばれて間もない遺体から肉を切り取っていたかとも思われる。ただしこれは忍性と龍象房を批判している日蓮の信者の書状であるので厳密な真偽のほど(忍性と龍象の証言は残っていないので)は不明である。しかしそれが一方の側からの主張だったとしても、小袋坂ならそれもありうるという状況があるから信用に足ると思われる。なお坂とは今は登り下りの道の意味だが、この時代には境界、峠を指す。例えば鎌倉七口切通しは「坂」と呼ばれている。小袋坂は建長寺の前を通る道。建長寺の地はかつて地獄谷と呼ばれていたがこのとき既に建長寺は建てられていた。
  24. ^ なおそこは尾根の上の平場でありやぐらはなく、「疾行餓鬼の図」のように死体は放置されたか埋められたと思われる。 あるいはこの石廟自体が納骨施設なのかもしれないがこの地の発掘調査は行われていない。
  25. ^ 後にはその地にも倉庫のような建物が増えてゆくが。
  26. ^ 馬淵和雄1998は浜の大鳥居(現在の一の鳥居よりも八幡側)の先が市街地外であろうとする。
  27. ^ 平安時代末、12世紀初頭の成立とされる『今昔物語集』にも、信心深い若い男が路上であった検非違使庁の放免大内裏の跡地で死んでいた少年の死体を鴨川の河原に棄ててくるように命じられたことが記されている(今昔物語集3 巻第29話 pp.483-485)。不法なのは市街地の大路や辻への遺棄・放棄であるが、これとて死体遺棄事件というほどのものではない。鎌倉幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している(中世法制史料集1 追加法397条 p.214、弘長元年(1261年)2月20日「関東新制条々」61条)。何度も出すということはいっこうに止まなかったということである。
  28. ^ 関東の武士の多くは辺境軍事貴族とされる平高望他、源経基藤原利仁藤原秀郷らの子孫であり、またはその子孫を標榜している。
  29. ^ 石の卒塔婆を立てるように遺言した最初の人は18代天台座主元三大師良源である。しかし良源の場合も中有の四十九日までにそれを建てろと云っていることから、転生するまでの期間の功徳を期したもので、そこにいつまでも霊が残るという意味での墓塔ではないとも見られている(勝田至2012 p.131)。それが五輪塔となった早い例は『兵範記』の1167年(仁安2年)に出てくる藤原基実墓石である。
  30. ^ 墓塔に戒名や没年月日を書くことは13世紀後半から広がり始め、墓参は14世紀初頭から徐々に広まったと考えられている。
  31. ^ 阿弥陀堂とか地蔵堂というのはその堂の本尊からの呼称であるが、法華堂というのは法華三昧を修する堂で機能からの呼称である。そこは数名の三昧僧が交代で昼は法華経を読み、夜は念仏を唱えるなどする。
  32. ^ 葬られ方は様々で火葬骨が多いが棺のまま安置されることもありそれは遺言等による。堂の下に埋められる場合もあれば、仏像の下に入れられることもある(勝田至2003 pp.139-140)。
  33. ^ 良い例が頼朝の墓、北条泰時北条時頼北条時宗などの墓はやぐらではない。
  34. ^ 現在の白旗神社の場所は近世まで山の斜面であったことが発掘調査で明らかになっている。
  35. ^ 10月19日条では地相人金浄法師が「右大將家(頼朝)法華堂下の御所の地は、四神相応最上の地なり。何ぞ他所に引き移さるべけんや」と、頼朝の法華堂が平地の上にあることを前提とした意見を述べる。10月20日条では珍誉法眼が「法華堂前の御地然るべからざるの所なり 。西方に丘有り。その上右幕下(頼朝)の御廟を安んず。その親墓高くしてその下に居らば、子孫これ無きの由、本文に見ゆ」。「本文」とは陰陽道の奥義書の意味である。ここでも頼朝の法華堂が頼朝の墓であり、それが平地よりも上であることを前提として意見を述べている。
  36. ^ これが分骨であるのか、拾い上げた全ての骨なのかは不明である。1160年(永暦元年)に没した鳥羽上皇の寵妃美福門院は鳥羽上皇が用意していた塔に葬られたが、美福門院の遺書が見つかり遺骨は高野山に運ばれた。このとき、その塔(法華堂)の三昧僧は反対し、受け入れられないと分骨を願ったがそれも拒否されている。実朝が死ぬ60年前には分骨は一般的ではなかったとみられている(勝田至2012 p.147)。
  37. ^ 江戸時代初期の沢庵玉舟も寿福寺に詣でてはいるが政子、実朝の墓には一言も触れていない。その伝承は江戸時代後期の『鎌倉攬勝考』が地元の伝承として紹介したものだが、『攬勝考』の著者自身はあまり信用してはいない。『攬勝考』以前には源頼家の墓と紹介されたこともある。
  38. ^ 『吾妻鏡』には「勝長寿院の小御堂は故禅定二位家(政子)の御遺跡」とある。
  39. ^ 建保6年12月2日条にはこうある。 「二日庚子、晴、右京兆依霊夢所令草創給之大倉新御堂被安置薬師如来像〔雲慶奉造之〕、今日被遂供養、導師荘厳房律師行勇、呪願円如房阿闍梨遍曜、堂達頓覚房良喜〔若宮供僧〕 也、施主并室家等坐簾中、相州、式部大夫、陸奥次郎朝時被坐正面広廂、信濃守行光、大夫判官行村、大夫判官景廉已下御家人為結縁群参、源筑後前司頼時、美作左近大夫朝親、三条左近蔵人親実、伊賀左近蔵人仲能、安芸権守範高等為布施取、各参候于堂南仮屋、戌剋事終、導師已下被引御布施」。 つまり堂の中には導師退耕行勇ら僧三名と義時夫妻のみが入り、その弟時房、子の泰時朝時は広庇(簡単に云うと前面縁側)に座り、二階堂行光二階堂行村以下の幕府高官は堂の上に上がっていない。お布施の受け渡しは堂内ではなく、堂の南の仮屋で行っている。
  40. ^ 赤星直忠は『鎌倉市史・考古編』で『吾妻鏡』のこの記事を以て「このやぐらに埋葬したことを記すものと考える」(p.485) とするが、その後の大三輪龍彥や河野真知郎は否定的である。
  41. ^ 実際そのことによってその場所は北条時政の名越亭ではないかと噂された。
  42. ^ ちなみに「府中墓所事」は一般庶民向けではなく、墓所を持つのは上流階級である。
  43. ^ そこから大友頼泰が領地の豊後の都市・府中の支配のために発布したもので鎌倉とは直接関係ないとの説もあった。だが更にその後、その時点で頼泰はまだ豊後に下向しておらず、かつ当時の豊後国府は都市というにはほど遠い状態であったことも判明した。大友氏は頼泰の祖父大友能直の代から豊前・豊後の守護となるが実際には鎌倉や京に居る。それらのことから「新御成敗状」はその京や鎌倉の都市の行政支配の知識をベースとした不在守護の理念的な法令(ガイドライン)であることが近年指摘されている。
  44. ^ 律令制の根幹を成す養老律令の喪葬令(そうそうりょう)皇都条には「凡皇都及道路側近、並不得葬埋」つまり皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならないと規定されている。『類聚三代格』巻16には平安時代の871年(貞観13年)に無秩序な葬送を禁止し、替わりに2つの葬送地を指定した記載がある。
  45. ^ 例外は三ヶ所あるが、右京三条三坊、右京五条二坊、右京七条四坊と全て現代の京都市右京区である。京の市街地、特に貴族・官人の住まいは左京区に集中しており、それがいわば山の手。右京区は湿地下町で、主に下々の者が住み空き地も多かった。
  46. ^ 若宮大路の側溝から人骨が発掘されたが、これは埋葬というより遺棄されたものである。埋葬でない遺棄、放棄は日常的であり、幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。何度も出すということはいっこうに止まなかったということであり、現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる(中世鎌倉を掘る1994 pp.56-57)。このあたりは京でも状況は同じである。むしろ京の方が多い(勝田至2012 p.117)
  47. ^ これが巨福呂坂なのか亀ヶ谷坂なのかははっきりしない。
  48. ^ カッコ内は割書で、今でいう注記である。1行分の巾を2行に分けて小さな字で書く。
  49. ^ 石塔も初見ということでは古く遡れるが、浸透し始めるのは上流階級でも14世紀以降である。庶民の間にも広まるのは更に遅く江戸時代中期からである(民俗小事典 p.209)。
  50. ^ それを制度とみなすことには疑問も呈されている(水藤真2009 pp.157-159)。
  51. ^ この場合の法華堂は墓としての墳墓堂ではなく本来の法華三昧を修する堂である。
  52. ^ ただしこれは高野山や善光寺のような、一般に開放された納骨なのか、あるいは一族の納骨なのかは不明である。
  53. ^ 長谷寺の旧本堂下の宝前にあたる場所で常滑焼の大甕に入った人骨や蔵骨器が発見されている。発掘された骨には梵字呪文が書かれており、光明真言が多い(画像は三館連携特別展2012 p.255)。なお長谷寺の創建ははっきりしないが、弘長二年(1262)在銘の板碑、文永元年(1264年)に物部季重が鋳造した銅鐘があり、その他の状況証拠から大仏と同時期に浄土宗と西大寺系律宗の影響下で創建と馬淵和雄は見ている。
  54. ^ この話に出てくる葬送は沢山の僧が鉦をたたき念仏を唱え、俗人達も多く連なって来るとあるので、一般庶民ではなく長者の葬送である。
  55. ^ この結社は毎月15日の夕刻に集まって念仏三昧を修する。結衆が病気になれば往生院で香花などに囲まれて死ぬことが出来、結衆全体の墓所も定めて花台廟と名付け予め卒塔婆を立てておき、結衆が死ねば結社の僧が家族でなくとも協力して葬送を行う。
  56. ^ 宋人石工は4人はいたが名前が残る者は伊行末ひとりである。
  57. ^ その石塔に死者の戒名や没年月日を刻むものが増加するのは13世紀後半以降である(勝田至2012 p.131)。現在の墓には墓石が据えられるが、それが庶民の間にも広まったのは更に遅く江戸時代中期からである(民俗小事典 p.209)。
  58. ^ ただし範囲を少し拡げると、忍性が関東での最初の拠点とした筑波山麓の三村山極楽寺の安山岩の宝篋印塔は1252年(建長4年)から1260年代前半ぐらいまでの作とされる。更に石塔以外に範囲を拡げると、鎌倉の大仏殿の敷石も安山岩の加工であり、早ければ1241年(仁治2年)、遅くとも1260年代前半にはこの加工を行っていたことになる(塩澤寛樹2010 pp.182-187)。
  59. ^ ただし、様式面から一部は13世紀中頃の可能性を指摘する学者もいる。
  60. ^ 文献上の初見は1183年(寿永2年)の吉田経房の娘の葬送で「一向に(全体的に)明定上人に示してこれを沙汰せしむ」とある。「一向」とは「全体的に」の意味である。
  61. ^ 浄住寺の斉戒衆はこの光明院を中心としていたと思われている(追塩千尋2004 p.41)。
  62. ^ もっとも1317年(文保元年)の伏見上皇の葬送を「一向上人沙汰」した浄金剛院の本道上人は浄土宗西山派という説もある。
  63. ^ 例えば安房国館山の大荘厳寺(現・小網寺)である。大荘厳寺の宗派ははっきりしないが、称名寺開山である審海の銘の刻まれた法具が伝わることから鎌倉時代後期には西大寺系律宗であったろうと推測されている。またこの寺には西大寺系律宗の影響下にある物部国光が鋳造した弘安9年(1286年)銘の大鐘が残る。物部国光はこのあと称名寺、円覚寺の大鐘も鋳造している。
  64. ^ 例えば先に触れた神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に『吾妻鏡』などにも登場する楽人中原光氏の名があり、鶴岡八幡宮の木造弁才天坐像(裸形着装像、重要文化財)の寄進者でもあるが、鎌倉によく顔を見せる泉涌寺(北京律)6世長老の憲静は弘安9年の相模国大山寺供養にこの中原光氏も動員している。またこの憲静の記録ではこの大山寺復興のために南都(奈良)大工の大蔵康氏らを動員している。この大蔵康氏の名は称名寺の『堂建立書』にも「大工禅大和権守大蔵康氏」とみえる。職人集団と云っても、下は土木作業員や一介の石工や大工でも、その棟梁達、特に大工や鋳物師の棟梁は官位官職を持つ身分である。
  65. ^ 叡尊ら律宗奈良市系の理念は「興法利生」、つまり仏法を興し衆生に利益をもたらすというもので、自らには厳しい戒律を科したが、「衆生に利益」の方で非人その他下層民の救済の他、職能民への布教、組織化によって寺院の復興だけでなく多くの土木事業を成功させる。それによって権益も手にする。権益とは幕府や院の双方の帰依・寄進だけでなく、橋を架け道を整備することで交通の要所に関所を設けて料金を取るなども含まれる。橋を架けた川を殺生禁断の地とすることも多く、この殺生禁断は漁業権の獲得を意味することがある。鎌倉の海側一帯も殺生禁断の地としており、忍性の極楽寺にその管理が任され、商業・貿易に大きな権益を握る。北条時頼が西大寺から叡尊を招き、北条一門が家の寺を律宗に切り替えてバックアップしたのは、宗教性だけではなく、そうした律宗の非人・職能民の組織化と土木建築などの能力に期待するという政治的な理由が大きいのではないかという見方もある(塩澤寛樹2010 p.178, p.181)。
    やぐらに関わる職能民は石工が中心だが、その他鋳物師への影響力も有名であり、今ではどの寺にもある大鐘は律宗西大寺系の河内鋳物師の手で、特に北条得宗家領の寺や幕府に認定された関東祈祷寺から広まっていく(馬淵和雄1998 p.46)。
  66. ^ 和賀江港高徳院の大仏、極楽寺称名寺浄光明寺など大型施設・寺院は元々は念仏衆が中心になって建立したものだが、叡尊の鎌倉来訪後に律宗に変わっている。北条泰時の時代から浄土宗は鎌倉に広まるが、その末端の「念仏者」には手を焼いたらしく、1235年(文暦2年)7月14日の『新編追加』、更に1262年(弘長元年)2月20日の『関東新制』にも「念仏者のこと」がある。そこでは「道心堅固の輩」を除き風紀を乱す念仏者は追放するというものである。ここでいう「道心堅固の輩」は浄土宗の中の持戒念仏であり、戒律をも重んじるため律宗にも近い。鎌倉に残った浄土宗はこの持戒念仏である。
    いずれにせよ律宗は鎌倉においても幕府と北条一門の支援の下、幕府・御家人の支配から外れる下層民を組織化して土木工事等の原動力に変えてゆく。 それ故にやはり下層民に支持基盤を広げようとした日蓮は忍性らを激しく攻撃し対立した。日蓮の他宗排撃は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という言葉が有名だが、実際に抗争を繰り返したのは念仏衆・念仏者を吸収した律宗とである。日蓮は『聖愚問答抄』で忍性を「飯島(和賀江港)の津にて六浦の関米を取りては、諸国の道を作り七道に木戸をかまえて人別の銭を取りては、諸河に橋を渡す」「今の律僧の振舞いを見るに、布絹財宝をたくわへ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり」とその実業家面に批判を集中している(馬淵和雄1998 p.221)。
  67. ^ 例えば1999年に行われた二階堂紅葉ヶ谷所在やぐら群の発掘調査では、玄室床面に深さ10cm弱の掘り窪めた火葬址が14世紀中葉とみられるかわらけとともに見つかっている。その床面ではなく、その上を覆っていた腐植土層から崩落土丹塊層にかけて多数の火葬されていない人骨や動物の骨が見つかっている。その骨を調査した国立科学博物館の報告書は、人骨はまとまったものは無く、本遺跡がやぐらを再利用した再埋葬であるため埋葬された時点で既に人骨が部分的であった可能性が高いとしている。

出典

  1. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.497-504
  2. ^ 【ぐるっと首都圏 旅するみつける】神奈川・鎌倉 やぐら/崖の岩肌 横穴3000基超/中世建造の歴史遺産毎日新聞』朝刊2019年2月24日(首都圏面)2021年9月12日閲覧
  3. ^ 赤星直忠1970 p.65-66
  4. ^ 大三輪龍彥1977 pp.151-152
  5. ^ 鎌倉市史・考古編 p.463
  6. ^ 大三輪龍彥1977 p.16
  7. ^ 新編鎌倉志 1915, p. 46.
  8. ^ 『吾妻鏡』文治4年(1188年)10月10日条、吾妻鏡1 p.309
  9. ^ 『吾妻鏡』弘長3年(1263年)4月7日条、吾妻鏡4 p.822
  10. ^ 鎌倉市史・考古編 p.464
  11. ^ 大三輪龍彥1977 p.114
  12. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.463-464
  13. ^ 大三輪龍彥1977 pp.16-17
  14. ^ 鎌倉市史・考古編 p.467
  15. ^ 鎌倉市史・考古編 p.468
  16. ^ 大三輪龍彥1977 p.129
  17. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.482-485
  18. ^ 大三輪龍彥1977 p.66
  19. ^ 鎌倉市史・考古編 p.477
  20. ^ 大三輪龍彥1977 p.79
  21. ^ 大三輪龍彥1977 pp.148-149
  22. ^ 大三輪龍彥1977 p.122
  23. ^ 河野真知郎1995 pp.145-146
  24. ^ 河野真知郎1995 pp.150-152
  25. ^ a b 河野真知郎1995 p.147
  26. ^ a b 鎌倉市史・考古編 p.472
  27. ^ 大三輪龍彥1977 p.75
  28. ^ 大三輪龍彥1977 p.49
  29. ^ 大三輪龍彥1977 pp.75-76
  30. ^ 大三輪龍彥1977 p.101
  31. ^ 鎌倉市史・考古編 p.399
  32. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.488-489
  33. ^ 山稜部の調査2001
  34. ^ 分布調査2001
  35. ^ 大三輪龍彥1977 p.138
  36. ^ 大三輪龍彥1977 p.142
  37. ^ a b 鎌倉市史・考古編 p.486
  38. ^ 鎌倉市史・考古編 p.487
  39. ^ 大三輪龍彥1977 p.33
  40. ^ 鎌倉市史・考古編 p.371
  41. ^ a b c 中世石塔の考古学 p.202
  42. ^ 河野真知郎1995 pp.147-148
  43. ^ 山川均2006 pp.90-97
  44. ^ 大三輪龍彥1977 pp.91-92
  45. ^ 大三輪龍彥1977 pp.87-89
  46. ^ 大三輪龍彥1977 p.121
  47. ^ 画像は三館連携特別展2012 p.256
  48. ^ 大三輪龍彥1977 p.123
  49. ^ 紅葉ヶ谷発掘調査 p.6
  50. ^ 大三輪龍彥1977 p.92
  51. ^ 大三輪龍彥1977 pp.121-123
  52. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.508-509
  53. ^ 地輪の画像は三館連携特別展2012 p.256
  54. ^ 発見場所での供養の画像は三館連携特別展2012 p.267
  55. ^ 鎌倉市史・考古編 p.352
  56. ^ 鎌倉史蹟疑考 p.207
  57. ^ 筒井功2010 p.133
  58. ^ 鈴木ゆり子1994 p.67
  59. ^ a b 河野真知郎1995 p.157
  60. ^ 勝田至2012 p.120
  61. ^ 筒井功2010 p.138
  62. ^ 民俗小事典 pp.170-172
  63. ^ 水藤真2009 pp.187-194
  64. ^ 勝田至2003 pp.127-128、p.217
  65. ^ 勝田至2003 pp.220-222
  66. ^ 水藤真2009 p.194
  67. ^ 細川涼一2005 p.12
  68. ^ 名越切通2001 p.4
  69. ^ 石井進2005 pp.95-96
  70. ^ a b 季刊考古学,85号 p.80
  71. ^ 分布調査2001 p.4
  72. ^ 大三輪龍彥1977 pp.119-120
  73. ^ 馬淵和雄1998 p.131
  74. ^ 馬淵和雄1998 p.132
  75. ^ 画像は三館連携特別展2012 p.207
  76. ^ 河野真知郎1995 pp.157-158
  77. ^ 筒井功2010 pp.137-138
  78. ^ a b 勝田至2012 p.116
  79. ^ 続日本後紀』 承和9年10月14日条
  80. ^ 戸田芳実1991 p.30
  81. ^ 『吾妻鏡』元暦元年(1184年)6月1日条
  82. ^ 高橋崇2002 pp.112-135
  83. ^ 民俗小事典 pp.5-7
  84. ^ 勝田至2012 pp.131-132
  85. ^ a b 勝田至2012 p.146
  86. ^ 大三輪龍彥1977 pp.22-25
  87. ^ 高橋崇2002 pp.232-260
  88. ^ 『吾妻鏡』正治2年(1200年)1月13日条
  89. ^ 大三輪龍彥1977 pp.27-32
  90. ^ 『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月19日条及び10月20日条
  91. ^ 鎌倉史蹟疑考 pp.208-209
  92. ^ 鎌倉史蹟疑考 pp.208-209
  93. ^ 『吾妻鏡』貞応2年(1223年)4月19日条、7月26日条
  94. ^ 『吾妻鏡』貞応2年(1223年)7月12日条
  95. ^ 『吾妻鏡』建長3年(1251年)8月6日条
  96. ^ 水藤真2009 p.97
  97. ^ 『明月記』 嘉禄元年(1225年)10月17日条
  98. ^ 『吾妻鏡』建保6年(1218年)12月2日条
  99. ^ 『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月18日条、吾妻鏡3 p.18
  100. ^ 『吾妻鏡』仁治2年(1241年)12月30日条
  101. ^ 『吾妻鏡』建長2年(1250年)12月29日条
  102. ^ 『吾妻鏡』仁治三年(1243年)6月15日条
  103. ^ 『吾妻鏡』正嘉2年(1258年)3月23日条
  104. ^ 『吾妻鏡』建保3年(1215年)9月15日条、吾妻鏡2 p.717
  105. ^ 鎌倉市史・考古編 p.485
  106. ^ 『吾妻鏡』正治元年(1199年)6月30日条と7月6日条、建仁2年(1202年)1月29日条
  107. ^ 大三輪龍彥1977 pp.36-37
  108. ^ 勝田至2012 p.168
  109. ^ 河野真知郎1995 p.151
  110. ^ 長谷部楽爾・今井敦「日本出土の中国陶磁」図55・56『中国の陶磁』12巻(平凡社、1995年)
  111. ^ 「重要文化財」編纂委員会編『解説版新指定重要文化財 10 考古資料』毎日新聞社、1981年
  112. ^ 中世法制史料集1 p.138
  113. ^ 人文地理52-6 pp.84-85
  114. ^ 山村亜希2001
  115. ^ 石井進2005 p.133
  116. ^ 勝田至2012 pp.116-117
  117. ^ 河野真知郎1995 pp.85-87
  118. ^ 石井進2005 pp.156-157
  119. ^ 『吾妻鏡』嘉禄元年(1225年)10月3日条~12月20日条
  120. ^ 『吾妻鏡』仁治元年(1240年)10月10日条
  121. ^ 『吾妻鏡』仁治元年(1240年)11月30日条
  122. ^ 『吾妻鏡』延応2年(1240年)2月2日条
  123. ^ 鎌倉市史・総説編 pp.201-203
  124. ^ 『吾妻鏡』仁治元年(1240年)11月21日条
  125. ^ 『吾妻鏡』寛元2年(1245年)4月22日条
  126. ^ 鎌倉市史・総説編 pp.203-204
  127. ^ 『吾妻鏡』建長4年(1252年)9月30日条及び10月16日条
  128. ^ 鎌倉市史・総説編 pp.207-208
  129. ^ 水藤真2009 p.145
  130. ^ 『大友文書』貞治3年(1364年)2月日/『大日本史料』6-25,p.949
  131. ^ 河野真知郎1995 p.153
  132. ^ 『吾妻鏡』元仁元年(1224年)6月18日条
  133. ^ a b 水藤真2009 p.157
  134. ^ 民俗小事典 p.209
  135. ^ 水藤真2009 pp.158-159
  136. ^ 水藤真2009 pp.89-90
  137. ^ 民俗小事典 pp.210-213
  138. ^ 『兵範記』仁平3年(1153年)12月8日条
  139. ^ a b 勝田至2012 p.147
  140. ^ a b 勝田至2012 p.148
  141. ^ 沙石集 巻7-2話 pp.296-297
  142. ^ 水野正好1997 pp.17-29
  143. ^ 馬淵和雄1998 p.148
  144. ^ 『吾妻鏡』仁治2年(1241年)12月30日条及び宝治2年(1248年)12月29日条
  145. ^ 勝田至2012 p.145
  146. ^ 吉田経長『吉続記』文永8年(1271年)7月15日条
  147. ^ 勝田至2012 pp.145-146
  148. ^ 勝田至2003 pp.155-156
  149. ^ 勝田至2003 pp.157-158
  150. ^ 今昔物語集4 巻27第36話 pp.527-529
  151. ^ 勝田至2003 pp.159-161
  152. ^ 勝田至2003 pp.166-168
  153. ^ 勝田至2003 pp.178-179
  154. ^ 勝田至2003 pp.179-180
  155. ^ 勝田至2003 pp.181-186
  156. ^ 細川涼一2005 pp.27
  157. ^ 日本の中世墓 pp.14-18
  158. ^ 勝田至2003 pp.168-170
  159. ^ 勝田至2003 pp.172-176
  160. ^ 山川均2006 pp.4-15
  161. ^ a b 水藤真2009 p.200
  162. ^ 水藤真2009 p.213
  163. ^ 日本の中世墓 p.237
  164. ^ 水藤真2009 pp.202-203
  165. ^ 埼玉県教育委員会『板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書』1981年
  166. ^ 民俗小事典 p.204
  167. ^ 水藤真2009 pp.208-209
  168. ^ 水藤真2009 p.157
  169. ^ 季刊考古学,85号 p.85
  170. ^ 勝田至2012 pp.150-151
  171. ^ 民俗小事典 p.172
  172. ^ a b 追塩千尋2004 p.41
  173. ^ 勝田至2012 pp.151-152
  174. ^ 勝田至2012 pp.153-154
  175. ^ 馬淵和雄1998 p.282
  176. ^ 水藤真2009 pp.79-83
  177. ^ 勝田至2012 pp.155-156
  178. ^ a b c 河野真知郎1995 p.148
  179. ^ 細川涼一1997 p.172,185,190,200
  180. ^ 細川涼一1997 p.174
  181. ^ 馬淵和雄1998 pp.56-57
  182. ^ 「中世寺院遺跡が語る都市の境界」 細川涼一1997 pp.176-209
  183. ^ 大三輪龍彥1977 p.116
  184. ^ 馬淵和雄1998 pp.41-42
  185. ^ 鎌倉市史・寺社編 p.195
  186. ^ 大三輪龍彥1977 pp.91-92
  187. ^ 箱崎和久1999 pp.115-116
  188. ^ 馬淵和雄1998 pp.218-224
  189. ^ 馬淵和雄1998 pp.51-53
  190. ^ 大三輪龍彥1977 p.144
  191. ^ 馬淵和雄1998 pp.134-141
  192. ^ 『吾妻鏡』貞永元年(1232年)7月12日条及び8月9日条
  193. ^ 季刊考古学,85号 p.28
  194. ^ 馬淵和雄1998 p.134
  195. ^ 貞和5年(1349年)2月11日付足利尊氏書状(『極楽律寺要文録』)
  196. ^ 大三輪龍彥1977 p.150
  197. ^ 河野真知郎1995 p.144
  198. ^ 紅葉ヶ谷発掘調査 p.8, p.27
  199. ^ 大森金五郎1907 p.261
  200. ^ 鎌倉市史・考古編 p.504
  201. ^ 鎌倉市史・考古編 p.496-497
  202. ^ 鎌倉市史・考古編 p.514
  203. ^ 名越切通2001 p.4
  204. ^ 名越切通2012
  205. ^ 鎌倉市史・考古編 p.527-528
  206. ^ 鎌倉市史・考古編 p.491-496
  207. ^ 鎌倉市史・考古編 p.511
  208. ^ 鎌倉市史・考古編 p.509
  209. ^ 鎌倉市史・考古編 p.508-509
  210. ^ 鎌倉市史・考古編 pp.519-520
  211. ^ 鎌倉市史・考古編 p.521-522



※ご利用のPCやブラウザにより、漢字が正常に表示されない場合がございます。
Copyright © KANJIDIC2 - the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group(EDRDG), used in conformance with the Group's licence. Copyright © 1991-2010 Unicode, Inc. All rights reserved. Stroke Order Diagrams(SODs) licensed from © Kanji Cafe.

「窟」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



窟と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「窟」の関連用語

窟のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



窟のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのやぐら (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA) and/or GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblioに掲載されている「Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ)」の記事は、Wiktionaryの (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、Creative Commons Attribution-ShareAlike (CC-BY-SA)もしくはGNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
漢字辞典
Copyright © KANJIDIC2 - the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group(EDRDG), used in conformance with the Group's licence.
Copyright © 1991-2010 Unicode, Inc. All rights reserved. Distributed under the Terms of Use in http://www.unicode.org/copyright.html.
Stroke Order Diagrams(SODs) licensed from © Kanji Cafe.
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS