やぐら 庶民の埋葬

やぐら

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/01 14:50 UTC 版)

庶民の埋葬

京の百姓葬送の地

この時代の「百姓」とは貴族官人以外の納税者、庶民の意味である。 中世の庶民に「先祖代々の墓」はない[56][注 16]。 「先祖代々」は「家」の確立があってのことであり、庶民にも「家」の概念が浸透するのは江戸時代からである[57]。 そして平安時代から鎌倉時代まで、庶民のほとんどは風葬である。 インドだけでなくかつては日本においてもそれは普通の日常的な光景であった。 平安時代には子供ならば貴族の子、天皇の子の遺体さえも火葬も土葬もされずに町の外に運んでそのまま土の上に置かれている。[58][59][注 17]。 871年(貞観13年)の太政官符には鴨川の下流を指して近年耕地化されつつあるがここは「百姓葬送の地、放牧之処」であるので耕地化を禁止すると命令している[60][注 18]

『餓鬼草紙』の葬送の地

東京国立博物館蔵の12-13世紀の作とされる『餓鬼草紙』「疾行餓鬼の図」「食糞餓鬼の図」に葬送の地の一コマがある[61][62][注 19]。 土饅頭(塚墓)の上に木が植わっているもの、石が置かれているもの(これらも墓標である)、木の卒塔婆が立っているもの、それを柵で囲っているもの、卒塔婆が五輪塔のもの。 そのまわりには既に白骨化したものが散乱し、莚の上の女性の遺体は置かれて間もなく、その枕元には漆塗りらしき器がふたつ置かれている。 別の敷物の上には腐乱した男の遺体。 そして蓋のない棺に入れられた遺体を犬が食っている。 その棺の傍には棺を担いだときの棒と、その脇に折敷(薄板の盆)と土器(かわらけ)が描かれている。 これらは決して行き倒れではなく不法な死体遺棄でもない。 この絵の中のフィクションは5人の餓鬼だけであり、それ以外は当時の誰もが知っていた普通の葬送の地の光景がまとめて描かれている。 なお死体がみな裸なのは運んだのが親族なら帰った後に盗られたのかもしれない[63][注 20]。 運ぶのを依頼されたのが坂非人とか河原者なら、衣類具足は報酬としてそれらの者が取る権利がある[64][65][66][注 21]

鎌倉の地獄の風景

14:東瓜が谷やぐら群1号穴の十王と思われる中国風神像

鎌倉では死体を埋葬ないしは放棄するのは、鎌倉中[注 22] の外、境界の外側であり、後の極楽寺や建長寺の場所が地獄谷と言われていたのはそのためである[67][68][69][70][注 23]名越切通付近にもまんだら堂やぐら群とは別に、死者の埋葬地に建立された鎌倉時代の石廟がふたつ残り、古くから葬送の地であったことを伺わせる(画像16[71][注 24]。 よく刑場と云われる化粧坂のすぐ傍の瓜が谷やぐら群の1号穴には中央に地蔵菩薩の石像、壁には死後の審判を行う十王らしき四体の神像彫刻がある[72]画像14)。 更にそこから下って北鎌倉駅前の道で出たすぐ左側の橋は十王橋という。 従ってこのあたりも葬送の地であったと想像されている。 鎌倉で地獄谷と云われる地をよく「刑場」と云われるが、葬送の地だから刑場にも使われるというだけである。 処刑した死体はそのまま放置できる。

海側は現在の下馬交叉点の近くまで滑川が入江のようになっており、その先は市街地ではない[注 25]。 現在の一の鳥居が浜の大鳥居と呼ばれたように浜である[73][注 26]。 その浜もまた埋葬地であり多くの人骨が見つかっている。 ひとつの穴に数百の人骨と牛馬など動物の骨もあり、「由比ヶ浜南遺跡」からは4000体近い人骨が出土している[74]。 人間の大腿骨の端の部分に犬に囓られた跡があったりと[75]、 付近に散乱していた骨をだいぶ時間が経ってから集めて埋めたとみなされている。 つまり浜にはかなりの死体が放置されていたということである[76]。 先に触れた『餓鬼草紙』にあるようにこれは当時としては異様な光景ではない。 鎌倉の浜に相当するものは、京においては鴨川の河原である[77]。 平安時代初めの842年(承和9年)に朝廷は鴨川河原他に散在する髑髏を焼却させたが、その数は5500余にものぼったという。 [78][79][注 27]


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注釈

  1. ^ 塋域(えいいき)とは墓地・墓場のこと。
  2. ^ 第七代執権北条政村が構えた北条氏常盤亭跡にも法華堂跡とやぐらがある。鎌倉の寺院と最上流の武家屋敷の多くはひとつの谷戸を占有しており、その切り開かれた部分(平場)の一番奥の方にあることが多い。
  3. ^ 東林寺跡やぐらの例や、後に触れる理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらの例などはあるが、数は少ない。
  4. ^ 龕(がん)とは元々は仏像を安置するための岩壁をくり抜いたものを指すが、棺のことも龕と呼ぶ(菊池章太2011 p.128-129)。やぐらそのものも龕ともいえるがこの場合はそのやぐらの中に設けられた納骨穴を指す。
  5. ^ 例えば南都七大寺のひとつ元興寺の極楽坊本堂(極楽堂、鎌倉時代・国宝)では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていた。 中尊寺金色堂(平安時代後期)でも祭壇の下は藤原三代(実四代)ながら、やはり長押上にそれ以外の納骨が行われているのが解体修理の際に発見されている。
  6. ^ 仏教語で円形の輪
  7. ^ 埼玉県の板碑でも寺に関わるものが全体の67%にも及んでおり、石塔の共通した傾向である(水藤真2009 p.200)。 これらが僧の墓ということではない。 これについては「結界の地・共同墓地の形成」を参照。
  8. ^ なお、当時の宗派は現在のように固定的なものではない。 特に鎌倉時代に律宗と呼ばれる西大寺系、泉涌寺系の一派は戒律を重んじる四宗兼学の総合大学のようなものである。 律宗系が71%としたが、当時律宗僧と関わりのあった東密(真言宗)系大慈寺や浄土宗長楽寺なども含めると更に圧倒的な比率になる。 鎌倉時代初期には台密(天台宗)系がほとんどであったが、台密系寺院関連にはやぐらはほとんど見られない。
  9. ^ 具体的な例は頼朝法華堂の東隣、義時法華堂跡とされる平場の上の、江戸時代から大江広元の墓と伝えるやぐらは奈良時代のものの再利用とみられる。
  10. ^ この籾塔形式宝篋印塔は安山岩製というが、鎌倉周辺に安山岩製の石塔や石仏でもっとも古いのは金沢・称名寺にある北条実泰(1263年没)夫妻再建塔もしくは北条実時(1276年没)墓塔と考えられる五輪塔である。 称名寺が南都律の寺となったのは1267年(文永4年)であるので実泰夫妻再建塔はそれ以降に作られたものということになる。 現在鎌倉にある安山岩の宝篋印塔で最も古いのは安養院にあるもので1308年(徳治3年)である。
  11. ^ 板碑は秩父産の緑泥片岩で造られるため安山岩より加工しやすく鎌倉石のように風化しない。
  12. ^ 例えば浄光明寺のやぐらにある網引地蔵は鎌倉の石ではなく安山岩である。 より具体的には、ちょうど1300年(正安2年)に忍性に従って箱根山に来た大蔵心阿がそこで宝篋印塔を完成させた。そしてその後鎌倉に定着したのが鎌倉における宝篋印塔のはじまりだとされる。 ただし、五輪塔には13世紀末と見られる称名寺のものもあり、極楽寺と称名寺で様式が僅かに異なることから、西大寺(南都律)系でも複数の石工集団が居たと推測される(中世石塔の考古学 p.207 )。
  13. ^ なお「逆修四十九」の「逆修」とは生前に自分の三十三回忌までの全ての法要行ってしまうことで、死後の追善休養の6倍の功徳があるとされていた。これが行われているということは、今日の生前墓と同じように、死ぬ前に自分のやぐらを用意しておくということも想像される。法華堂が生前は持仏堂だったようなものである。
  14. ^ 俗名の知れるものには極楽寺の忍性塔の傍らに延慶3年(1310年)の安山岩製五輪塔がある。 「関弥八左衛門入道 沙弥 行真 延慶三年八月五日」と銘があるので武士と思われる(鎌倉市史・考古編 p.404-405)。 この例のように仮に俗名が判明してもよほど有名で、古文書の各所に出てくる者でなければどのような者であるのかは判明しない。 なおこれはやぐらの例ではない。
  15. ^ 例えば十二所に大江広元塔と伝えるものがあるが、江戸時代後期に毛利家の家老らが調べにきたとき、土地の者は後の煩わしさを避けるために屋蓋部を谷に突き落として、そのようなものは残っていないと答えたと伝えている。 昭和になって落とされた部分も集めて積み重ねられたが、そちらが本物かどうかは別の話で似たような話は他にもある。
  16. ^ 柳田国男は「石器を使っていた時代の人骨でも、探しているとおいおい出てくるのに、いかなる古い村にも中世以前の墓場というものがない」と述べている。
  17. ^ 1077年(承保4年)9月に白河天皇の皇子が4歳で死んだとき、遺体を東山大谷に置いた。 源俊房は『水左記』に「七歳のうち、尊卑ただ同じことなり」と書いており、下々の者は風葬が当然であったことを示している。 ただしそれは平安時代の話で、南北朝時代の埼玉の板碑には「生年五才」の「沙弥了秀」の供養のものもある。 しかしこれはほとんど例外である。 更に時代が下り16世紀頃の越前一乗谷の石塔では、童子・童女(幼児ではないが未成年)がそれぞれ大人の男女の半分ぐらいまで出てくるようになる(水藤真2009 p.216)。
  18. ^ 鴨川の下流、桂川との合流地点付近で古くは「佐比河原」(さいのかわら)と呼ばれていた地である。ここは京の外とされている。
  19. ^ 水藤真 『中世の葬送・墓制』の「『餓鬼草紙』の世界と墓の三要素」に詳しい。
  20. ^ 1226年(嘉禄2年)に六条朱雀に首を切られた男女の死体があったが見物人が集まった頃にはもう死骸は全裸で、道行く人が見るに見かねて木の枝を折って女陰を隠したという。侍従源親行が悪行を繰り返し、その情婦(自分の異母姉)とともに父雅行が殺させたもので当然着物をまとっていたはずである(藤原定家『明月記』嘉禄2年6月23,24日条)。
  21. ^ 西大寺律宗(南都律)の創始者叡尊に出された非人の請文に「諸人葬送の時、山野において随身せしむる所の具足(衣類その他葬具)」を非人が取る権利が記されている。 東寺光明講衆と坂非人集団の葬送権をめぐる文書にも類似の記述がある。 現在の感覚からは違和感はあるが、そもそも僧侶が着す袈裟の元は釈迦やその弟子の出家者が着ていた糞掃衣が元で、それらは風葬された遺体などから集めたものである。 そもそも病気で死にそうになった使用人は食べ物と一緒に道に出されるという時代の話なので、現代の感覚は通用しない。
  22. ^ 「かまくらちゅう」と読み、時期によって範囲は拡大していくが、おおよそ山に囲まれた鎌倉中心部の意味であり、首都の都区部ぐらいの意味である。 その内と外では法が変わる。 中は幕府の直接支配であり、外はそれぞれの地頭の支配である。
  23. ^ 1277年(建治3年)の「頼基陳状」によると小袋坂で下級の僧が葬送の死体の肉を切り取っているのを発見され、龍象房に命じられたと白状云々という風聞が記されている(石井進2005 p.101-102)。しかし、この頼基陳状には、良観忍性をあがめる龍象房が京都で人肉を食したという風説があり、鎌倉に来てさらにそのうわさがある僧であると書かれており、下級の僧の記述はない。 しかし、人肉食がこのころの一般の事実であれば先の『餓鬼草紙』「疾行餓鬼の図」にある女の遺体の様な、運ばれて間もない遺体から肉を切り取っていたかとも思われる。 ただしこれは忍性と龍象房を批判している日蓮の信者の書状であるので厳密な真偽のほど(忍性と龍象の証言は残っていないので)は不明である。 しかしそれが一方の側からの主張だったとしても、小袋坂ならそれもありうるという状況があるから信用に足ると思われる。 なお坂とは今は登り下りの道の意味だが、この時代には境界、峠を指す。例えば鎌倉七口切通しは「坂」と呼ばれている。小袋坂は建長寺の前を通る道。 建長寺の地はかつて地獄谷と呼ばれていたがこのとき既に建長寺は建てられていた。
  24. ^ なおそこは尾根の上の平場でありやぐらはなく、「疾行餓鬼の図」のように死体は放置されたか埋められたと思われる。 あるいはこの石廟自体が納骨施設なのかもしれないがこの地の発掘調査は行われていない。
  25. ^ 後にはその地にも倉庫のような建物が増えてゆくが。
  26. ^ 馬淵和雄1998は浜の大鳥居(現在の一の鳥居よりも八幡側)の先が市街地外であろうとする。
  27. ^ 平安時代末、12世紀初頭の成立とされる『今昔物語集』にも、信心深い若い男が路上であった検非違使庁の放免に大内裏の跡地で死んでいた少年の死体を鴨川の河原に棄ててくるように命じられたことが記されている(今昔物語集3 巻第29話 p.483-485)。 不法なのは市街地の大路や辻への遺棄・放棄であるがこれとて死体遺棄事件というほどのものではない。 鎌倉幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している(中世法制史料集1 追加法397条 p.214、弘長元年(1261年)2月20日「関東新制条々」61条)。 何度も出すということはいっこうに止まなかったということである。
  28. ^ 関東の武士の多くは辺境軍事貴族とされる平高望他、源経基藤原利仁藤原秀郷らの子孫であり、またはその子孫を標榜している。
  29. ^ 石の卒塔婆を立てるように遺言した最初の人は18代天台座主元三大師良源である。 しかし良源の場合も中有の四十九日までにそれを建てろと云っていることから、転生するまでの期間の功徳を期したもので、そこにいつまでも霊が残るという意味での墓塔ではないとも見られている(勝田至2012 p.131)。 それが五輪塔となった早い例は兵範記の1167年(仁安2年)に出てくる藤原基実墓石である。
  30. ^ 墓塔に戒名や没年月日を書くことは13世紀後半から広がりはじめ、墓参は14世紀初頭から徐々に広まったと考えられている。
  31. ^ 阿弥陀堂とか地蔵堂というのはその堂の本尊からの呼称であるが、法華堂というのは法華三昧を修する堂で機能からの呼称である。 そこは数名の三昧僧が交代で昼は法華経を読み、夜は念仏を唱えたりする。
  32. ^ 葬られ方は様々で火葬骨が多いが棺のまま安置されることもありそれは遺言等による。堂の下に埋められる場合もあれば、仏像の下に入れられることもある(勝田至2003 p.139-140)。
  33. ^ 良い例が頼朝の墓、北条泰時北条時頼北条時宗などの墓はやぐらではない。
  34. ^ 現在の白旗神社の場所は近世まで山の斜面であったことが発掘調査で明らかになっている。
  35. ^ 10月19日条では地相人金浄法師が「 右大將家(頼朝)法華堂下の御所の地は、四神相応最上の地なり。何ぞ他所に引き移さるべけんや」と、頼朝の法華堂が平地の上にあることを前提とした意見を述べる。 10月20日条では珍誉法眼が「法華堂前の御地然るべからざるの所なり 。西方に丘有り。その上右幕下(頼朝)の御廟を安んず。その親墓高くしてその下に居らば、子孫これ無きの由、本文に見ゆ」。 「本文」とは陰陽道の奥義書の意味である。ここでも頼朝の法華堂が頼朝の墓であり、それが平地よりも上であることを前提として意見を述べている。
  36. ^ これが分骨であるのか、拾い上げたすべての骨なのかは不明である。 1160年(永暦元年)に没した鳥羽上皇の寵妃美福門院は鳥羽上皇が用意していた塔に葬られたが、美福門院の遺書が見つかり遺骨は高野山に運ばれた。 このとき、その塔(法華堂)の三昧僧は反対し、受け入れられないと分骨を願ったがそれも拒否されている。実朝が死ぬ60年前には分骨は一般的ではなかったとみられている(勝田至2012 p.147)。
  37. ^ 江戸時代初期の沢庵玉舟も寿福寺に詣でてはいるが政子、実朝の墓には一言も触れていない。 その伝承は江戸時代後期の『鎌倉攬勝考』が地元の伝承として紹介したものだが、『攬勝考』の著者自身はあまり信用してはいない。 『攬勝考』以前には源頼家の墓と紹介されたこともある。
  38. ^ 『吾妻鏡』には「勝長寿院の小御堂は故禅定二位家(政子)の御遺跡」とある。
  39. ^ 建保6年12月2日条にはこうある。 「二日庚子、晴、右京兆依霊夢所令草創給之大倉新御堂被安置薬師如来像〔雲慶奉造之〕、今日被遂供養、導師荘厳房律師行勇、呪願円如房阿闍梨遍曜、堂達頓覚房良喜〔若宮供僧〕 也、施主并室家等坐簾中、相州、式部大夫、陸奥次郎朝時被坐正面広廂、信濃守行光、大夫判官行村、大夫判官景廉已下御家人為結縁群参、源筑後前司頼時、美作左近大夫朝親、三条左近蔵人親実、伊賀左近蔵人仲能、安芸権守範高等為布施取、各参候于堂南仮屋、戌剋事終、導師已下被引御布施」。つまり堂の中には導師退耕行勇ら僧三名と義時夫妻のみが入り、その弟時房、子の泰時朝時は広庇(簡単に云うと前面縁側)に座り、二階堂行光二階堂行村以下の幕府高官は堂の上に上がっていない。お布施の受け渡しは堂内ではなく、堂の南の仮屋で行っている。
  40. ^ 赤星直忠は『鎌倉市史・考古編』で『吾妻鏡』のこの記事を以て「このやぐらに埋葬したことを記すものと考える」(p.485) とするが、その後の大三輪龍彥や河野真知郎は否定的である。
  41. ^ 実際そのことによってその場所は北条時政の名越亭ではないかと噂された。
  42. ^ ちなみに「府中墓所事」は一般庶民向けではなく、墓所をもつのは上流階級である。
  43. ^ そこから大友頼泰が領地の豊後の都市・府中の支配のために発布したもので鎌倉とは直接関係ないとの説もあった。 だが更にその後、その時点で頼泰はまだ豊後に下向しておらず、かつ当時の豊後国府は都市というにはほど遠い状態であったことも判明した。 大友氏は頼泰の祖父大友能直の代から豊前豊後守護となるが実際には鎌倉や京に居る。 それらのことから「新御成敗状」はその京や鎌倉の都市の行政支配の知識をベースとした不在守護の理念的な法令(ガイドライン)であることが近年指摘されている。
  44. ^ 律令制の根幹を成す養老律令の喪葬令(そうそうりょう)皇都条には「凡皇都及道路側近、並不得葬埋」つまり皇都及び道路の側近くには、いずれも死者を埋葬してはならないと規定されている。 「類聚三代格」巻16には平安時代の871年(貞観13年)に無秩序な葬送を禁止し、替わりに2つの葬送地を指定した記載がある。
  45. ^ 例外は三ヶ所あるが、右京三条三坊、右京五条二坊、右京七条四坊と全て右京区である。 京の市街地、特に貴族・官人の住まいは左京区に集中しておりそれがいわば山の手。 右京区は湿地の下町で、主に下々の者が住み空き地も多い。
  46. ^ 若宮大路の側溝から人骨が発掘されたが、これは埋葬というより遺棄されたものである。 埋葬でない遺棄、放棄は日常的であり、幕府は大路に死体を捨ててはならないという触れを何度も出している。何度も出すということはいっこうに止まなかったということであり、現に発掘調査では若宮大路や横大路の側溝、鶴岡八幡宮の三方掘の中からも、牛馬の骨とか成人や少年の骨が出てくる(中世鎌倉を掘る1994 p.56-57)。 このあたりは京でも状況は同じである。 むしろ京の方が多い(勝田至2012 p.117)
  47. ^ これが巨福呂坂なのか亀ヶ谷坂なのかははっきりしない。
  48. ^ 朝比奈切通である。
  49. ^ カッコ内は割書で、今でいう注記である。1行分の巾を2行に分けて小さな字で書く。
  50. ^ 石塔も初見ということでは古く遡れるが、浸透しはじめるのは上流階級でも14世紀以降である。 庶民の間にも広まるのは更に遅く江戸時代中期からである(民俗小事典 p.209)。
  51. ^ それを制度とみなすことには疑問も呈されている(水藤真2009 p.157-159)。
  52. ^ この場合の法華堂は墓としての墳墓堂ではなく本来の法華三昧を修する堂である。
  53. ^ ただしこれは高野山や善光寺のような、一般に開放された納骨なのか、あるいは一族の納骨なのかは不明である。
  54. ^ 長谷寺の旧本堂下の宝前にあたる場所で常滑焼の大甕に入った人骨や蔵骨器が発見されている。 発掘された骨には梵字呪文が書かれており、光明真言が多い(画像は三館連携特別展2012 p.255)。 なお長谷寺の創建ははっきりしないが、弘長二年(1262)在銘の板碑、文永元年(1264年)に物部季重が鋳造した銅鐘があり、その他の状況証拠から大仏と同時期に浄土宗と西大寺系律宗の影響下で創建と馬淵和雄は見ている。
  55. ^ この話に出てくる葬送は沢山の僧が鉦をたたき念仏を唱え、俗人達も多く連なって来るとあるので、一般庶民ではなく長者の葬送である。
  56. ^ この結社は毎月15日の夕刻に集まって念仏三昧を修する。 結衆が病気になれば往生院で香花などに囲まれて死ぬことが出来、結衆全体の墓所も定めて花台廟と名付け予め卒塔婆を立てておき、結衆が死ねば結社の僧が家族でなくとも協力して葬送を行う。
  57. ^ 宗人石工は4人はいたが名前が残る者は伊行末ひとりである。
  58. ^ その石塔に死者の戒名や没年月日を刻むものが増加するのは13世紀後半以降である(勝田至2012 p.131)。 現在の墓には墓石が据えられるが、それが庶民の間にも広まったのは更に遅く江戸時代中期からである(民俗小事典 p.209)。
  59. ^ ただし範囲を少し拡げると、忍性が関東での最初の拠点とした筑波山麓の三村山極楽寺の安山岩の宝篋印塔は1252年(建長4年)から1260年代前半ぐらいまでの作とされる。 更に石塔以外に範囲を拡げると、鎌倉の大仏殿の敷石も安山岩の加工であり、早ければ1241年(仁治2年)、遅くとも1260年代前半にはこの加工を行っていたことになる(塩澤寛樹2010 p.182-187)。
  60. ^ ただし、様式面から一部は13世紀中頃の可能性を指摘する学者もいる。
  61. ^ 文献上の初見は1183年(寿永2年)の吉田経房の娘の葬送で「一向に(全体的に)明定上人に示してこれを沙汰せしむ」とある。 「一向」とは「全体的に」の意味である。
  62. ^ 浄住寺の斉戒衆はこの光明院を中心としていたと思われている(追塩千尋2004 p.41)。
  63. ^ もっとも1317年(文保元年)の伏見上皇の葬送を「一向上人沙汰」した浄金剛院の本道上人は浄土宗西山派という説もある。
  64. ^ 例えば安房国館山の大荘厳寺(現小網寺)である。 大荘厳寺の宗派ははっきりしないが、称名寺開山である審海の銘の刻まれた法具が伝わることから鎌倉時代後期には西大寺系律宗であったろうと推測されている。 またこの寺には西大寺系律宗の影響下にある物部国光が鋳造した弘安9年(1286年)銘の大鐘が残る。 物部国光はこのあと称名寺、円覚寺の大鐘も鋳造している。
  65. ^ 例えば先に触れた神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に『吾妻鏡』などにも登場する楽人中原光氏の名があり、鶴岡八幡宮の木造弁才天坐像(裸形着装像、重要文化財)の寄進者でもあるが、鎌倉によく顔を見せる泉涌寺(北京律)6世長老の憲静は弘安9年の相模国大山寺供養にこの中原光氏も動員している。 またこの憲静の記録ではこの大山寺復興のために南都(奈良)大工の大蔵康氏らを動員している。 この大蔵康氏の名は称名寺の「堂建立書」にも「大工禅大和権守大蔵康氏」とみえる。 職人集団と云っても、下は土木作業員や一介の石工や大工でも、その棟梁達、特に大工や鋳物師の棟梁は官位官職をもつ身分である。
  66. ^ 叡尊ら律宗西大寺系の理念は「興法利生」、つまり仏法を興し衆生に利益をもたらすというもので、自らには厳しい戒律を科したが、「衆生に利益」の方で非人その他下層民の救済の他、職能民への布教、組織化によって寺院の復興だけでなく多くの土木事業を成功させる。 それによって権益も手にする。 権益とは幕府や院の双方の帰依・寄進だけでなく、橋を架け道を整備することで交通の要所に関を設けて料金を取るなども含まれる。 橋を架けた川を殺生禁断の地とすることも多く、この殺生禁断は漁業権の獲得を意味することがある。 鎌倉の海側一帯も殺生禁断の地としており、忍性の極楽寺にその管理が任され、商業・貿易に大きな権益を握る。 北条時頼が西大寺から叡尊を招き、北条一門が家の寺を律宗に切り替えてバックアップしたのは、宗教性だけではなく、そうした律宗の非人・職能民の組織化と土木建築などの能力に期待するという政治的な理由が大きいのではないかという見方もある(塩澤寛樹2010 p.178, p.181)。
    やぐらに関わる職能民は石工が中心だが、その他鋳物師への影響力も有名であり、今ではどの寺にもある大鐘は律宗西大寺系の河内鋳物師の手で、特に北条得宗家領の寺や幕府に認定された関東祈祷寺から広まっていく(馬淵和雄1998 p.46)。
  67. ^ 和賀江港高徳院の大仏、極楽寺称名寺浄光明寺など大型施設・寺院は元々は念仏衆が中心になって建立したものだが、叡尊の鎌倉来訪後に律宗に変わっている。 北条泰時の時代から浄土宗は鎌倉に広まるが、その末端の「念仏者」には手をやいたらしく、1235年(文暦2年)7月14日の「新編追加」、更に1262年(弘長元年)2月20日の「関東新制」にも「念仏者のこと」がある。 そこでは「道心堅固の輩」を除き風紀を乱す念仏者は追放するというものである。 ここでいう「道心堅固の輩」は浄土宗の中の持戒念仏であり、戒律をも重んじるため律宗にも近い。 鎌倉に残った浄土宗はこの持戒念仏である。
    いずれにせよ律宗は鎌倉においても幕府と北条一門の支援のもと、幕府・御家人の支配から外れる下層民を組織化して土木工事等の原動力に変えてゆく。 それ故にやはり下層民に支持基盤を広げようとした日蓮は忍性らを激しく攻撃し対立した。 日蓮の他宗排撃は「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という言葉が有名だが、実際に抗争を繰り返したのは念仏衆・念仏者を吸収した律宗とである。 日蓮は『聖愚問答抄』で忍性を「飯島(和賀江港)の津にて六浦の関米を取りては、諸国の道を作り七道に木戸をかまえて人別の銭を取りては、諸河に橋を渡す」「今の律僧の振舞いを見るに、布絹財宝をたくわへ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり」とその実業家面に批判を集中している(馬淵和雄1998 p.221)。
  68. ^ 例えば1999年に行われた二階堂紅葉ヶ谷所在やぐら群の発掘調査では玄室床面に深さ10cm弱の掘り窪めた火葬址が14世紀中葉とみられるかわらけとともに見つかっているが、その床面ではなくその上を覆っていた腐植土層から崩落土丹塊層にかけて多数の火葬されていない人骨や動物の骨が見つかっている。 その骨を調査した国立科学博物館の報告書は、人骨はまとまったものは無く、本遺跡がやぐらを再利用した再埋葬であるため埋葬された時点ですでに人骨が部分的であった可能性が高いとしている。

出典

  1. ^ 鎌倉市史・考古編 p.497-504
  2. ^ 赤星直忠1970 p.65-66
  3. ^ 大三輪龍彥1977 p.151-152
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