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藤原得子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/29 10:03 UTC 版)
藤原 得子(ふじわら の なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、鳥羽天皇の譲位後の妃。近衛天皇の生母。女御、皇后、女院。藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。父は権中納言・藤原長実(贈太政大臣)、母は左大臣・源俊房の女、方子。院号は美福門院(びふくもんいん)。
- ^ 得子の母・方子は弟の源師時に「鍾愛の女子院の寵あり」と語っている(『長秋記』長承3年8月14日条)。
- ^ 『本朝世紀』同日条によると、待賢門院判官代・源盛行と待賢門院女房の津守嶋子夫妻が、広田社で国母皇后を呪詛し奉ったという密告があり、夫妻は土佐に配流となった。この事件は『台記』『百錬抄』の同日条にも記載があり、頼長は「一凶一吉眼前に在りとは、待賢門院の謂れか」という風評を記している。
- ^ 頼長は得子を「諸大夫の女」と呼び(『台記』康治3年正月1日条)、一度も書状を送ったことがないと記すなど疎遠な関係だった(『台記』久安6年2月13日条)。忠通も正月の拝礼をしないなど当初は得子を軽んじる態度が見られたが、忠実・頼長との対立が激化するに伴い、義弟の伊通を通じて得子への傾斜を深めていくことになる。
- ^ 『保元物語』では、得子が鳥羽法皇に働きかけて雅仁親王即位に至ったと書かれている。『山槐記』永暦元年12月4日条にも藤原伊通の談話として、雅仁親王と守仁親王は得子の恩により即位したと記されている。一方、『玉葉』寿永2年8月14日条、『愚管抄』、『古事談』1-96は、雅仁即位を鳥羽法皇に進言したのは藤原忠通とする。『今鏡』では雅仁擁立を誰が主導したかについては言及がない。橋本義彦は、雅仁擁立を目指して鳥羽法皇を説得したのは、雅仁の乳母(藤原朝子)の夫で院近臣の中で主導的立場にあった信西ではないかと推測している(「保元の乱前史小考」『平安貴族社会の研究』吉川弘文館、1976年)。
- ^ 口寄せによって現れた近衛天皇の霊は「何者かが自分を呪うために愛宕山の天公像の目に釘を打った。このため、自分は眼病を患い、ついに亡くなるに及んだ」と述べ、調べてみると確かに釘が打ちつけられていた。住僧に尋ねてみると「5、6年前の夜中に誰かが打ち付けた」と答えたという(『台記』久寿2年8月27日条)。
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