第一次世界大戦と反動不況とは? わかりやすく解説

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第一次世界大戦と反動不況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 01:33 UTC 版)

日本近代史」の記事における「第一次世界大戦と反動不況」の解説

詳細は「大正」を参照 1914年大正3年)には第一次世界大戦勃発した日本直接的戦闘地域は殆どなかったにかかわらず元老井上馨はその機会を「天佑と言い大隈内閣日英同盟理由参戦し戦勝国一員となった実質的損害はなく、戦火揺れたヨーロッパの列強各国代わり日本当時まだまだ新興国家だったアメリカ合衆国貿易加速させて空前好景気となり、日本でも大戦景気成金などが出現するなど大きく経済発展させた。 第一次世界大戦中1917年大正6年)にはロシア革命勃発しロマノフ王朝打倒されソビエト連邦誕生した寺内内閣ソビエト政権転覆する為にシベリア出兵したが(→反革命戦争)、折から国内では米価暴騰し富山県から米騒動起こり全国広がった政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵推進した寺内正毅首相退陣し、代わって初め爵位がなく、また衆議院議席を持つ立憲政友会政友会)の原敬首相となった原内閣)。政友会でも、西園寺公望薩摩系と結び付き強かったのに対し原敬長州系と結び付き強かった原敬祖先南部盛岡藩藩士であったが、平民宰相として人気博したものの1922年大正11年)、東京駅頭で一青年に暗殺された。この当時社会問題深刻化見られ社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府地方社会局創設相次いだ第一次世界大戦終わって列強生産力回復すると、日本輸出減少し1920年大正9年以後戦後恐慌時代となった。その戦後恐慌時代1923年大正12年)には、関東大震災発生した。この未曽有の大災害東京大きな損害を受けるが、震災後山本権兵衛内閣成立しその内務相となった後藤新平辣腕振るった震災での壊滅機会江戸時代以来東京の街を大幅に改良し道路拡張区画整理などを行いインフラ整備され、大変革遂げたまた、ラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興遂げた。しかし、一部計画されパリロンドン参考にした環状道路放射状道路等の理想的な近代都市への建設行われず日本戦後自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後首都高速建設につながる。一方、この震災乗じて暴動生じるというデマ振り撒かれ朝鮮人共産主義者虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史負の側面であろう大正期特色付けるのは、大正デモクラシー称される政治新し動向である。明治末期にかけては軍部元老山縣有朋の下で藩閥政治続いていたが、大正初期にかけては山県系列桂太郎比較リベラルな西園寺公望交代組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。1912年明治45年)、第2次西園寺内閣陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設否決したことに抗議して単独辞任し陸軍後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相欠いた西園寺内閣総辞職したその後桂太郎議会での交代ルール無視して宮中侍従長から3度目の首相返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。 この返り咲きに対して都市部知識階級中心にその反発強まった。そして尾崎行雄犬養毅らによる憲政擁護運動護憲運動)が起こり新聞批判起こった外、民衆国会取り囲む事態生じ大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛第1次)に組閣の命が下った山本内閣軍部大臣現役武官制緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢示したが、シーメンス事件退陣し、次いで庶民的大衆人気のあった大隈重信組閣した。その後関東大震災虎ノ門事件発生は、それまで藩閥危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣虎ノ門事件倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾内閣組織しようとした。それに対し憲政会革新倶楽部政友会の三派は、普選採用政党内閣制樹立掲げて藩閥官僚勢力主体とした政友本党対抗した護憲三派選挙勝利し護憲三派内閣として加藤高明内閣成立した第二次大正政変)。 加藤内閣は、1925年大正14年)には、身分財産によらず25歳上の成人男子全員」に選挙権与え普通選挙法成立させた。普選は、婦人の参政権認めず、生活貧困者の選挙権認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割期待されていたが、それと同時に治安維持法成立させ、「国体変革」「私有財産否定」の活動厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治定着するようになったこの後1932年昭和7年)に犬養内閣五・一五事件による犬養毅首相暗殺倒れるまで政党政治続き明治以来藩閥政治終わり政治は、官僚軍部基盤にしつつも政党中心に動いていくこととなったこのころまでに近代日本語多く文筆家らの努力形成された。今日に続く文章日本語スタイル完成し芥川龍之介有島武郎武者小路実篤志賀直哉白樺派中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品登場した同時期の1921年大正10年)には、小牧近江らによって雑誌種蒔く人』が創刊され昭和初期にかけてプロレタリア文学運動発展したまた、1924年大正13年)には、演劇小山内薫築地小劇場創立し新劇確立させた。新聞同人誌等が次第普及し新し絵画音楽写真や「活動写真」と呼ばれた映画などエンターテイメント徐々に充実した

※この「第一次世界大戦と反動不況」の解説は、「日本近代史」の解説の一部です。
「第一次世界大戦と反動不況」を含む「日本近代史」の記事については、「日本近代史」の概要を参照ください。

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