桂園時代
桂園時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)
第1次桂内閣では、日露戦争の遂行に協力する見返りとして立憲政友会へ政権を譲るという密約があり、伊藤と井上はこの密約を知っていたが、山縣は知らなかった。密約を知った山縣はこれに憤ったが、流れを変えようとはしなかった。桂は形式的に各元老に了解を取り、政友会総裁西園寺公望を後継首相に推薦した。第1次西園寺内閣の終焉にあたっても西園寺は桂を推薦し、天皇は伊藤・山縣・松方・井上の同意を確認してから桂に大命を下した。桂が日露戦争の勝利で権勢を強め、政友会の影響力も強大化したことにより、桂園時代の首相指名に関しては、元老は形式的な存在となっていった。伊藤の死後、桂は「元老は老衰した」として影響力を拡大しようともくろみ、1911年8月には「元勲優遇の詔勅」を受けている。またマスメディアにおいても元老が非立憲的であるなどと批判を受けるようになった。
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桂園時代
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詳細は「桂園時代」を参照 桂内閣の成立後、伊藤総裁は、日露情勢の打開、欧米列強との外交交渉を行うために、外遊の旅に出る。伊藤総裁は筆頭元老という立場もあり、桂内閣を支援する立場にあったが、留守を預かる原敬や松田正久ら政友会幹部は、政府攻撃に回る。11月に外債未達が発生すると、政友会は、隈板内閣の崩壊以来犬猿の仲であった第二党の憲政本党と桂内閣攻撃で提携する。この時点では党内では政府との交渉を続けるべしとの意見も多く、党内は二つに割れた。連絡を受けた伊藤総裁は外遊先より極秘に電報を打ち、倒閣を見合わせるよう訓示を出す。藩閥政権中枢および党幹部らがこれを回覧したのち、党幹部は矛を収めることを決意、藩閥側は政友会内の反対派を切り崩し、対立は一旦解消された。 1902年8月10日、任期満了に伴う第7回衆議院議員総選挙が行われ、政友会は引き続き第一党を維持する。選挙後の議会では、地租増徴の継続を巡り、政友会は再び憲政本党と連携して対立、伊藤総裁もこれを抑えられなくなる。同年末、衆議院解散されるが、桂内閣は打開の術として、桂首相が伊藤総裁を直接一本釣りにして、伊藤総裁は一部予算組み替えを条件に、増徴継続を容認する。1903年3月1日、第8回衆議院議員総選挙にて、政友会は再び第一党を維持するが、ほどなく伊藤の密約が発覚する。政友会は伊藤の地租継続の密約を容認するが、代償として党規約の改正、総裁専制からの脱却を要求。伊藤はこれを受け入れる。更に7月12日、元老兼野党総裁という伊藤の立場の扱いづらさ、伊藤が党内をまとめ切れていないという現状を解消すべく、藩閥首脳、党幹部の総意という形で、伊藤は祭り上げの形で枢密院議長に転出。入れ替わりに西園寺公望枢相が政友会総裁に迎え入れられる。 以降、桂率いる藩閥と、西園寺を総裁に戴く政友会が、妥協しつつ安定的に政権を運営する時代が、約10年間にわたり継続する(桂園時代)。この間、政友会は原の党務の下、衆議院第一党を維持し続ける。 1904年2月、日露戦争勃発。政友会は、桂内閣の戦争遂行に協力したが、同年11月頃より、西園寺・原・松田の幹部3人が桂とひそかに接触、戦後は政友会に政権を譲る方向で話をまとめる。1905年8月28日にポーツマス条約が締結されると、これに反対する民衆の暴動(日比谷焼き討ち事件)が発生したが、政友会は原の引き締めによりこれに加わらなかった。1906年1月7日、第1次西園寺内閣が成立する。 桂園時代の政友会は、西園寺公望、原敬、松田正久の三名による集団指導体制で運営された。堂上公家の生まれである西園寺が山縣や桂ら藩閥との交渉窓口や、自身の組閣などで対外的に党を代表、原は西園寺に代わって党務を統括、松田は党内に声望があり、党内の不満分子の取りまとめを担っていた。 第1次西園寺内閣は、年来の主張であった鉄道国有化などを実現する。1908年5月15日、第10回衆議院議員総選挙において、政友会は過半数を確保する。しかしこの直後、赤旗事件が発生、内閣の社会主義取り締まりの不備が山縣ら藩閥陣営から攻撃を受け、西園寺は総辞職を決意。後継には桂を奏請し、7月12日、第2次桂内閣が発足する。第2次桂内閣では、当初は野党の立ち位置であったが、1906年に憲政本党(衆議院第2党)を中心に非政友会党派の合同の機運が持ち上がると(のちに立憲国民党が結党される)、桂首相の求めによって、政友会は与党復帰する。 以降、再度の政権授受について、桂と原の間で交渉がもたれたが、1910年に大逆事件が明るみに出たことにより、西園寺内閣を攻撃した藩閥はメンツを失い、原は桂の政界引退の言質を取る。1910年8月30日、第2次西園寺内閣が成立する。1912年5月15日、第11回衆議院議員総選挙では、引き続き過半数を維持する。 1912年11月、二個師団増設問題が懸案として持ち上がる。これが、政界復帰を賭けた桂内大臣の陰謀が絡んでこじれ、西園寺内閣は総辞職する。変わって組織された第3次桂内閣は、桂が独自の政党の結成を企図して政友会との連携を解消したため、桂園連携は崩れる。野党に転じた政友会は立憲国民党ら他党とともに倒閣に突っ走り、第3次桂内閣は短期間で崩壊。西園寺も総裁を辞任、前後して松田が急死したため、原が後継の総裁となる(大正政変)。
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桂園時代
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その後、桂は西園寺公望と交互に組閣して政権を担い、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれ、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣し自身の最後の任期で政権を担う。 この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合(朝鮮の歴史:大韓帝国→日本統治時代の朝鮮)や大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。 だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。大正元年、元帥府に列する旨の内示を受けたが辞退している。
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桂園時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:11 UTC 版)
詳細は「桂園時代」を参照 大日本帝国政府は、明治維新を主導した西南雄藩(その中でも特に薩長)が主導権を握り(藩閥)、表向きは衆議院に代表される民意(民党)とは距離を置く超然主義を標榜したが、実際には、議会勢力の協力無くしては予算案や法案の審議、ひいては政権の運営がままならず、藩閥の歴代内閣は議会対応に苦慮した。 元勲世代が交代して首相職を務めた後、1901年(明治34年)に元勲の次世代に当たる桂太郎が、山縣有朋元老から藩閥陣営の主宰者を引き継ぐ形で首相に就任すると、議会第一党の座を確保した立憲政友会(西園寺公望総裁)との間で妥協が成立し、比較的安定した政権運営が行われるようになる。この間、首相の座に交互についた桂と西園寺から一字ずつ取って、桂園時代と呼称される。 ただし、「藩閥と政友会が権力の座を独占する」という対外的な安定性は確保された一方で、政権内部では、利益誘導などを巡って内紛が恒常的に続いた。特に、藩閥側の頂点に君臨する山縣元老は政党政治を本能的に嫌い、一方で政友会の党務を実質的に差配する原敬は地方への利益誘導を積極的に行って対立し、桂・西園寺両名(特に桂)の妥協的な態度には常に圧力が加えられた。1911年8月に第2次西園寺内閣が成立するときには、原は桂の政界引退の言質を取っており、一方山縣元老も、政友会に友好的な態度をとってきた桂を嫌い、藩閥内で桂のさらに次世代にあたる寺内正毅朝鮮総督らの引き上げを行うなど、桂の政治基盤の切り崩しにかかる。 一方桂は、藩閥、政友会以外の政治勢力を自ら立ち上げて、本格的な議会制民主主義(二大政党制)を日本に導入すべく、英国視察を企図する。加藤高明駐英大使を通じて段取りをつけ、7月6日、シベリア鉄道経由で訪英の旅に出る。ところがロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへ到着したところで明治天皇、発病、重態の知らせを受け、視察は取りやめとなる。一行は直ちに引き返し、7月29日、天皇崩御の知らせは帰路の旅上で受けた。 明治天皇の崩御後、山縣元老の策動により、桂は宮中職である内大臣兼侍従長に推される。「宮中・府中の別」の定めにより、この人事は、桂の事実上の政界引退を意味していた。しかし、明治天皇に大恩を感じていた桂は断りがたく、帰朝後の8月13日、内大臣兼侍従長に就任する。しかし桂は宮中職に精勤しつつも、政界復帰の可能性は保留し続けた。桂の後備役編入が迫る中、山縣は大正天皇に対して桂の元帥称号下賜を推薦。これは終身軍人の待遇を得るのと引き換えに、治安警察法の規定により、政治結社への関与が永久に禁じられることを意味した。そのため桂は天皇の「御沙汰」を辞退、また天皇に対し、今後は重大人事に関しては容易に御沙汰を下さないよう奏上した。11月28日、桂は後備役に編入される。
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