第一次世界大戦と以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/24 17:13 UTC 版)
「セオドア・G・エリソン」の記事における「第一次世界大戦と以降」の解説
1917年、エリソンはアナポリスを卒業した士官候補生たちとともに、戦艦「ワイオミング」 (USS Wyoming, BB-32) および「カンザス」 (USS Kansas, BB-21) で巡航を行った。アメリカの第一次世界大戦参戦後の1918年2月14日には、ニューロンドンの駆潜艇基地に派遣され、次いでイングランドのプリマスに設置されるアメリカ海軍第27基地に駆潜艇隊を迎え入れる準備のためロンドンに渡った。エリソンは航空とは正反対に位置する対潜水艦部門でも、駆潜艇隊のための戦術を考案し、その功績により海軍十字章を受章した。 1918年11月11日の大戦の休戦協定締結後も、エリソンはヨーロッパに残り、1919年3月から5月にかけては「ツェッペリン」を管理していた14名のクルーのトップにあった。アメリカへの帰国に際しては、ウィリアム・クランプ・アンド・サンズで建造されて竣工したばかりの駆逐艦「J・フレッド・タルボット(英語版)」 (USS J. Fred Talbott, DD-156) の初代艦長を1919年6月から1920年7月までの間務め、1920年の残りの期間は「リトル」 (USS Little, DD-79) と「ブルックス(英語版)」 (USS Brooks, DD-232) からなる部隊の指揮官を務めた。 1921年1月10日、エリソンはハンプトン・ローズに設置された海軍航空基地司令となり、9カ月間務める。9月1日付で海軍省にアメリカ海軍航空局(英語版)(航空局)が設置され、中佐に昇進していたエリソンは初代局長ウィリアム・A・モフェット少将(アナポリス1890年組)の下で事務計画部門のトップに10月21日付で就任する。1年後の1922年12月には航空局を離れて海軍使節団の航空部門担当としてブラジルに赴任し、ブラジル海軍の再編成の指導にあたった。一連の指導を終えて帰国後の1925年5月からは、再び航空局に勤務した。2カ月後の7月20日には第1水雷艇隊の司令となり、1926年6月には水上機母艦「ライト(英語版)」 (USS Wright, AV-1) 副長となる。また、1926年6月23日には巡洋戦艦から航空母艦へ改装中の「レキシントン」 (USS Lexington, CV-2) に艤装委員として赴任し、就役時まで在艦していた。
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