旧館(旧李王家邸)
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「赤坂プリンスホテル」の記事における「旧館(旧李王家邸)」の解説
大韓帝国の皇太子として生まれ、韓国併合後は日本の皇族に準じた扱いを受けていた李垠の邸宅として造営された建物を引き継いで1955年(昭和30年)開業した。建物は鉄筋コンクリート造(一部木造)2階建の洋館で、宮内省内匠寮の北村耕造、権藤要吉らが設計し、清水組(当時)により施工された。 日本の敗戦後には李垠も臣籍降下したことから、建物の大部分は参議院議長公邸などとして使用された後、1952年に国土計画興業(後のコクド、及びプリンスホテル)がこれを取得した。客室35室が整備され、1955年に赤坂プリンスホテルとして開業した。 元は四角い中庭を囲む形の建物で、後に西側が撤去されている。デザインはチューダー様式を基調としている。白い壁と濃褐色の木材との対比が落ち着いた印象を与えている。玄関ホールのスクリーン、階段の手摺り子など随所にねじり柱が施されている。談話室などには和風の網代天井も用いられている。現在、1階の大食堂はチャペルとして使用されている。2階のレストランは大幅に改装されているが寝室や書斎などの内装は造り付けの調度品も含めて当初の状態で残され、レストランの個室などに使用されている。1階がバー「ナポレオン」や結婚式場、2階がフレンチレストラン「トリアノン」などとなっていた。 2階:サファイアホール、仏蘭西料理「トリアノン」 1階:チャペル、バー「ナポレオン」、清和政策研究会事務所(閉館に伴い2011年2月、紀尾井町に移転) 2011年に東京都指定有形文化財となり、敷地内で曳家されたあと修復工事が進められ、2016年にレストラン、結婚式場、宴会場を備えた「赤坂プリンス クラシックハウス」としてリニューアルオープンした。 赤坂プリンス クラシックハウス(2016年〜) 2016年にオープンしたレストラン1、バー1、宴会場3、挙式会場を備えた施設。バーの店名「バー ナポレオン」は1950年の開業時より名前を引き継いでいる。敷地内にある挙式会場にて、「キリスト教式」「洋装人前式」「和装人前式」からそれぞれのスタイルに合わせて選べ、敷地内でのガーデン挙式も可能である。一方、パーティルーム(バンケット、披露宴会場)は「ロイヤル・ルーム」「クラウン・ルーム」「鏡の間」の3つから選択することができる。
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旧館
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「神奈川県立近代美術館」の記事における「旧館」の解説
1991年の大規模改修により、旧館の外観は全体に白っぽい色彩や素材色が中心の外観となっている。しかし、竣工当初は、濃茶色や濃緑色、黄色などの強い色彩が用いられていた。前庭では、1958年(木内克彫刻展)、1960年(集団60野外彫刻展)と、二度の野外彫刻展が開催された。その後、開館10周年の1961年6月より前庭整備が始まり、御影小舗石を約2,000個埋め込みしたコンクリート舗装に変わった。同時に、彫刻台中心に円形の芝生張りとなった。中庭は当初は玉砂利敷きで、桂離宮庭園を彷彿とさせるものであった。また北側の壁にロールスクリーンを設けて、映画の上映などが行なわれた。こちらも、1991年の大改修によって、玉砂利や敷石が撤去されて、コンクリート製の土間にスレート張りとなった。中庭の周囲には、大谷石の壁が立てられている。開館当初からのガラス戸と、改修後に設けられたガラスブロックとが見られる。ガラス戸は当初は可動式であった。 中庭に向け緩勾配になった屋根は、採光用の網入りガラスを乗せたノコギリ状の構造であった。1968年11月から1969年5月にかけて実施された改修工事によって、天窓が塞がれ、鋼板瓦棒葺きの片流れ屋根に改修された。軒樋まわりの方は、1991年の改修で亜鉛メッキ銅板葺きに改装された。開館当初の展示室は、自然採光式であったが、1991年の大改修の際に、空調や雨漏りの問題があって人工照明に改められた。床は開館当時はリノリウム製であったが、やはり大改修の際にグレー系のカーペット敷きとなった。また、1989年「ジョルジョ・モランディ展」の際に、第1・第2展示室の喫茶室側の入り口に風除室が設けられた。 旧館の建物は2020年度に国の重要文化財に指定された。
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旧館
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「デンマーク王立図書館」の記事における「旧館」の解説
スロッツホルメンにある旧館は1906年に Hans Jørgen Holm によって建てられた。その中央ホールはアーヘン大聖堂にあるカール大帝の宮殿礼拝堂を模している。前庭の泉の近くには花壇やリンゴの植え込みがあり、羽毛ペンを手に執筆にいそしむセーレン・キェルケゴールの像が置かれていた。
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旧館
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本館: 台南県仁徳郷三甲村 (現在は台南市仁徳区三甲里) 59-1合、奇美実業ビル内。2013年5月閉館、展示品は新館に移転。 保利分館: 台南県仁徳郷仁徳村 (現在は台南市仁徳区仁徳里) 仁徳四街11号、閉館。 南科分館: 台南県新市郷 (現在は台南市新市区) 奇業路1号、南部科学工業園区内、閉館。
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旧館
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「明日ちゃんのセーラー服」の記事における「旧館」の解説
現在は使われていない校舎で、併設される教会は結婚式に利用されることがあり、立派なオルガンがある。
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旧館
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1980年(昭和55年)4月1日、豊田市立逢妻中学校の校区に逢妻公民館が設置された。豊田市は各中学校区に地区公民館を設置しており、2番目に早く開館した地区公民館だった。逢妻公民館は愛知県道284号宮上知立線に面しており、南側の駐車場を挟んで逢妻中学校のプールに隣接している。県道284号を挟んで北側には豊田市立小清水小学校がある。1986年(昭和61年)に増築工事を行った。2002年(平成14年)には豊田市が各公民館の名称を「-公民館」から「-生涯学習センター交流館」に改称しており、逢妻公民館も逢妻交流館に改称された。 現行館の開館後、旧館の建物は2012年(平成24年)11月5日に逢妻ふれあい子ども館として開館した。
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旧館
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1955年 - 完成 鉄筋コンクリート地下1階地上2階建てのホール・ギャラリー棟、地下1階地上4階建ての別館(県立図書館)で構成されている。 栃木会館大ホール、ギャラリー、県立図書館(昭和46年に行われた図書館の新築移転後は、大ホールの楽屋・控室に改修) 1991年 - 閉館
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旧館
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「バイオハザード7 レジデント イービル」の記事における「旧館」の解説
本館から中庭や森を挟んで離れた場所に位置するもう一つのベイカー家の邸宅。本館同様に地上2階・地下1階建ての構造だが、特異菌の汚染に加え、3年前にベイカー一家がエヴリン達を保護する直前に発生していたハリケーンによる暴風雨の被害を受けていた事もあって、本館以上に荒廃しており、屋敷全体が半壊した廃墟同然の状態となってしまっている。
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旧館(土浦市生涯学習館)
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「土浦市立図書館」の記事における「旧館(土浦市生涯学習館)」の解説
旧土浦市立図書館は茨城県土浦市文京町9番2号の土浦市生涯学習館(旧・土浦石岡地方社会教育センター)の3・4階と1階の一部を占めていた。東日本大震災以降、郷土資料室は利用者の安全性と資料保存の見地から閉鎖されていた。 図書館部分の延床面積は、1,159.00m2であった。
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旧館
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旧黒磯市図書館・那須塩原市黒磯図書館は黒磯駅から2 km離れた末広町53-43(旧住所:豊浦53-43、北緯36度58分06.90秒 東経140度02分51.47秒 / 北緯36.9685833度 東経140.0476306度 / 36.9685833; 140.0476306)にあった。鉄筋コンクリート構造2階建てで、敷地面積は2,973 m2、延床面積は1,575.31 m2であった。1階に一般開架・児童開架・書庫・事務室など、2階にレファレンス室・視聴覚室・郷土資料室・読書室・会議室などを配置していた。設計監理費は1180万円、工費は3億7880万円で、1987年(昭和62年)3月25日に本体工事が完了した。 2020年(令和2年)3月31日に閉館し、2021年(令和3年)8月に解体工事の入札が行われ、解体された。
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旧館(1985-2020)
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「那須塩原市図書館」の記事における「旧館(1985-2020)」の解説
1985年(昭和60年)、黒磯市は第3次振興計画を策定し、図書館の建設計画を盛り込んだ。翌1986年(昭和61年)には社会教育課に図書館準備係を1人置き、図書館建設審議会(5回開催)による図書館建設位置や規模の検討、県内4館(真岡市立図書館・上三川町立図書館・栃木市図書館・大平町立図書館)の視察、設計コンペ、建設工事入札と進み、9月10日に着工した。1987年(昭和62年)3月25日に竣工し、市へ引き渡された。4月1日、図書館準備係が図書館に改称したことで、組織としての黒磯市図書館が発足し、書架や図書の購入手続きを進め、7月25日に読書室・会議室のみ先行して開放した。全館開館となったのは、10月17日の落成式以降である。 開館後直ちに、移動図書館の検討に入り、1988年(昭和63年)3月16日に公募の結果、名称を「さわやか号」に決定し、5月18日より市内12ステーションの巡回を開始した。1989年(平成元年)4月、さわやか号のステーションを14か所に増やし、貸出冊数も1人3冊から5冊に変更、ビデオの貸し出しを開始した。1989年(平成元年)度の蔵書数は89,079冊(うち児童書は21,069冊)で、開館時間は10時から18時まで(月曜日は13時まで)、休館日は火曜日、祝日、第3日曜日、第1・第3日曜日の翌日であった。その後、休館日は月曜日、火曜日、祝日に変更され、年末年始には9連休を取ったため、「休館が長すぎる」と非難を浴び、2000年(平成12年)4月より火曜日が開館日に改められた。 2001年(平成13年)6月に図書館ホームページを開設し、2003年(平成15年)2月からはホームヘルパーを介して高齢者に本を貸し出すサービスを開始した。2005年(平成17年)1月1日に黒磯市は那須郡西那須野町・塩原町と合併して那須塩原市となり、黒磯市図書館から那須塩原市黒磯図書館に改称した。 2012年(平成24年)4月1日、指定管理者制度を導入し、大高商事・大新東ヒューマンサービス・藤井産業共同事業体の管理運営に移行した。これに伴い、祝日に開館するようになった。同年4月23日、子どもの読書活動優秀実践図書館として文部科学大臣表彰を受けた。 2020年(令和2年)1月31日に貸し出しを終了し、以降は自習スペースの開放などを続け、3月31日に黒磯図書館が閉館した。閉館を前に、1月25日と1月26日に利用者への感謝を伝えるイベントを開催した。
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