拡張と成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:51 UTC 版)
「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「拡張と成長」の解説
1803年のルイジアナ買収により、西部の農夫達はミシシッピ川を重要な水路として使うことが可能となり、合衆国の西部辺境からフランス人を追い出すことで開拓者は広大な農地の拡張が可能となった。グレートプレーンズをふくむ同地域は世界の大穀倉地帯に成長していった。一方、綿花は当初南部での小規模作物だったが、イーライ・ホイットニーが1793年に綿花原料から種とその他の廃棄物を分ける機械であるコットン・ジンを発明した事によって盛況となった。間もなく奴隷労働に基づく大規模プランテーションが両カロライナ州からテキサス州にかけての肥沃な土地に拡がった。 毛皮貿易で一大資産を築いたアメリカ毛皮会社の所有者ジョン・ジェイコブ・アスターは、その事業から撤退した後に、ニューヨーク市のマンハッタン地区を買占めて開発し、アメリカ合衆国では最初の大富豪になった。 1807年、ロバート・フルトンがハドソン川で外輪蒸気船クラーモント号を試運転して、オールバニまで遡った。これが蒸気船の実用化に拍車を駆けて、水上交通に急速に普及していった。1818年には帆船によるニューヨーク・リヴァプール間の大西洋定期航路が開かれ、1838年からは蒸気船も加わり、1848年から蒸気船による定期航路も開かれて、ヨーロッパへの往来が速くなり、安全性も増した。 多くの者がアメリカ合衆国中西部のより肥沃な農地に移って行った。カンバーランド道路(1818年)やエリー運河(1825年)など政府が創設した道路や水路によって新しい開拓者の西部への移住を促し、西部農場の産品を市場に送ることが可能になった。ヘンリー・クレイのアメリカ・システムを支持したホイッグ党は内陸の改良(道路、運河、港)、産業の保護、および強い国定銀行の創設を提案した。しかし、ホイッグ党の法制化計画は民主党に遮られた。 この時代のアメリカは保護貿易政策を強化し、国内産業の育成を進めた。1824年関税法は商品の価格に応じて35%という高い関税率を定めた。1828年関税法では鉄などの原材料の課税額を重くした。しかし、農業産品の輸出に頼っていたサウスカロライナ州など南部は、輸出ができなくなると反発し、1832年関税法でもその状況が改善されなかったために、サウスカロライナ州ではこれらの関税が州内では無効となることを宣言した。無効化の危機と呼ばれるこの紛争は、後の南北戦争の伏線となった。 アンドリュー・ジャクソン大統領(在任1829年-1837年)は、政敵の固定化した利益のためになると信じた第二合衆国銀行に反対した。ジャクソンは2期目に選ばれたときに合衆国銀行公認期間の延長に反対し、議会もこれを支持した。ジャクソンは紙幣の流通にも反対し、政府の得るべき金は金貨と銀貨で支払われるべきであると要求した。 1837年恐慌が3年間経済の成長を止めた。期間延長を働きかけたヘンリー・クレイは1824年にギリシャ独立戦争でギリシャ側を支援した。延長問題は国際問題であった。1838年までに各州債務残高は1億7200万ドルにのぼった。ルイジアナには外資が集中投下されていた。州債はマーチャント・バンクが引受けることにより発行されていた(私募債)。公債市場の役者は、たとえばロスチャイルド、ベアリングス銀行(米英戦争から第二合衆国銀行と親密化)、ホープ商会、オーバレンド・ガーニー(現バークレイズ)、サミュエル・ロイド(Samuel Jones-Loyd, 1st Baron Overstone)であった。恐慌ではシティ・オブ・ロンドンが資金を供給しきれず、欧州へ資金を頼った州も続出したので、1848年革命まで国際的な不況が続いた。 鉄道は財務と進歩した管理技術を持つ都市工業国家への転換を可能にすることで、アメリカ経済に決定的な影響を与えた。鉄道が「不可欠な」ものであるかどうかを問われたとき、全ての人は事実上大変重要であることに同意したが、それではそれが無かったときどうだったろうか? ロバート・フォーゲルは代案は存在した、実現されることの無かった運河の仮想のネットワークであるとしている。存在しなかった運河と比較して、鉄道は合衆国の国内総生産 (GDP) に5%を追加しただけだと、フォーゲルは主張している(1820年代と1830年代に多くの運河が建設されたが、エリー運河は別として大半が破産した)。プラス面を見ると、鉄道は大規模な事業を運営する現代的手法を発明させ、全ての大企業が基本的に従う青写真を創出した。鉄道は最初に、管理の複雑さ、労働組合問題および競合の問題に遭遇した。これら急激な革新のために鉄道は最初の大企業となった。 何度か恐慌や不況を経験しながらも、19世紀中の急速なアメリカ経済の成長は留まらなかった。長期にわたる人口の増大、新しい農地への拡張および新しい工場の建設が続いた。新しい発明や資本の投入によって新しい製造業を創出し経済成長をもたらした。輸送力が改善されると常に新しい市場が開けた。蒸気船は川の交通を速く安くしたが、鉄道の発展はもっと大きな効果があり、広大な新しい領土を開発することを可能にした。運河や道路のように鉄道は初期の建設段階で土地の払い下げという形で政府の大きな援助を受けた。しかし、他の輸送形態とは異なり、鉄道は国内やヨーロッパの民間資本も大量に受け入れた。 それでも成長の展望と海外投資が組み合わさり、金鉱の発見やアメリカの公的および民間の富が大きく関与したこともあって、大規模な鉄道システムを発展させることが可能になり、国全体の工業化の基礎となった。 詳細は「アメリカ合衆国の鉄道史」および「アメリカ合衆国の鉄道」を参照 表1: 州群ごとの鉄道営業キロの増加1850年1860年1870年1880年1890年ニューイングランド 4,011 5,856 7,190 9,571 10,930 大西洋岸中部 5,123 10,728 17,542 25,395 34,458 南部州 3,258 14,141 17,907 23,645 46,734 西部州と準州 2,042 18,240 39,339 84,142 99,830 太平洋岸州と準州 37 2,683 6,528 15,686 合衆国合計 14,434 49,002 84,662 149,282 207,638 SOURCE: Chauncey M. Depew (ed.), One Hundred Years of American Commerce 1795–1895 p 111 産業革命は18世紀遅くに北ヨーロッパで始まり、19世紀初期にはアメリカで急速に広まった。例えば紡績機など工場生産を行うための機械は元々イギリスを始めヨーロッパで製作されたが、アメリカはこれを自国で生産できるように模倣と工夫を重ね、機械を作るための工作機械を持つ工場も現れた。1840年代後半にリボルバー拳銃を大量生産して富を築いたサミュエル・コルトは、1830年代に既に武器なればこそ必要とされる互換性のある部品という概念を持って製造を始めていた。製造ライン、大量生産の原型が既にこの時代に誕生していた。またコルトは特許権を事業にした者としても先駆的存在だった。 1846年のオレゴン条約でイギリスとの境界問題を片付け、翌年、米墨戦争に勝利したアメリカは、太平洋岸の出口をしっかりと確保した。カリフォルニアやコロラドでの金鉱発見が続き、西部は東部からの移住者で人口が急増し発展を始めた。以前から大西洋で盛んだった捕鯨が北太平洋での新たな産業になった。折から清国との貿易を求めていたアメリカは途中にある日本に薪、水、食料の補給拠点を求めた。1853年、マシュー・ペリーの率いる黒船船隊が浦賀沖に現れ、翌年の日米和親条約で日本は開国した。 エイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれた1860年までに、アメリカの人口の16%は2,500人以上が居住する都市に住み、国の歳入の3分の1は製造業から上がった。都市型製造業は主に合衆国北東部に限られていた。綿布製品が主導的製造業であり、靴、毛織物および機械類も拡大した。多くの新しい労働者が移民してきた。1845年から1855年の間に毎年30万人ほどのヨーロッパ人が移民してきた。その大半は貧しく東部の都市に留まり、そのまた多くは到着した港湾市にとどまった。 1852年、N・M・ロスチャイルド&サンズが米国鉄道債に初めて投資した(ペンシルベニア)。1853年、米財務省によると外国が州債の38%を保有していたが、某銀行によると58%にのぼった。財務省の推計によると、州債務の外国人保有割合はルイジアナで83%、アラバマ州で98%、ペンシルベニア州で66%、マサチューセッツ州で63%、メリーランド州で55%だった。
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