ギリシャ‐どくりつせんそう〔‐ドクリツセンサウ〕【ギリシャ独立戦争】
ギリシャ独立戦争
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ギリシャ独立戦争(ギリシャどくりつせんそう、ギリシア語: Ελληνική Επανάσταση του 1821(1821年ギリシャ革命)、英語: Greek War of Independence)は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争である。
注釈
- ^ この出典によると、1824年の方が80万ポンド(発行価格59%)、1825年の方が200万ポンド(発行価格56.5%)である。著者は「少なくともギリシア公債に関するものについては、払い込まれた額の僅かな部分しか目的地に、すなわちギリシア政府の手中に達しなかった。残りは発行業務を行っている金融業者の店によって主張された注文の形式で無駄に消費されたのである。そこで彼らは、ジブラルタルにも着くことのできなかったフリゲート艦や、使用しようと思うや否や爆発した火器を買わされたのであった」と分析している。
- ^ このギリシャ文庫は1805年以降、20年以上かけて出版されたが、ホメロスの時代からプトレマイオス朝までのギリシャ古典が集められていた。そして西欧で成功したギリシャ商人らがこれらを買い求めた[21]。
- ^ イェニチェリの将校らのこと。当時、ベオグラード・パシャリクの実権を事実上、掌握していた[10]。
- ^ この第一次露土戦争はロシアの勝利に終わり、キュチュク・カイナルジ条約が結ばれた[24]。
- ^ 18世紀末、ギリシャでは「アガタンゲロスの予言」と「賢者レオの予言」という噂が広まっており、ともにロシアがギリシャを解放するという内容であった。「アガタンゲロスの予言」は正教徒司祭テオクリトス・ポリエイデスが編纂した汎正教主義の予言であり、一方で「賢者レオの予言」では1773年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを追放されるとされていた[9]。
- ^ 1790年以降、ヴロラ、ベラト、チャメリア、テッサリアを勢力下としてヤニナ公国として統治していた[33]。
- ^ 1799年にナポレオンによって禁じられた民族舞踊の名称。フランス革命に参加した過激派がこの名称を名乗っており、ギリシャの共和主義者らはこれを真似て自称した[36]。
- ^ このイオニア七島連邦国には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスも評議会の行政長官として参加していた。カポディストリアスは憲法制定にも参加して外交、商業、教育の責任者として働き、さらにイオニア諸島のレフカダ島へ侵攻したアリー・パシャとの戦いでは軍事司令官として戦っている[38]。
- ^ カポディストリアスはこのイオニア七島連邦国での経験から自らがギリシャ人である意識を強く持ち、ギリシャ人にこだわらずバルカン半島の諸民族をオスマン帝国支配下から解放することまで考えていたという[22]。
- ^ 柴『バルカン史』によればイスタンブールでの蜂起を含むバルカン半島全体で蜂起を行い、『祖国(ミテーラ・パトリーザ)』の解放を目指していたとされている[53]。
- ^ フィリキ・エテリアはその後もセルビアと接触を持ち、セルビアとの共闘を目指したが、ミロシュはオスマン帝国と折り合いをつける方針を採用していたため、協力することはなかった[54]。
- ^ 当時、カポディストリアスがフィリキ・エテリアの会員であるという噂が一人歩きしていたがこれは事実ではなかったが[56]、その一方でフィロムソス・エテリアという組織を発足させており、このフィロムソス・エテリアと混同されることがあった[57]。ただし、後のフィリキ・エテリア指導者アレクサンドロス・イプシランディスによればカポディストリアスはフィリキ・エテリアに参加したとされているが、カポディストリアス本人はこれを否定している[58]。
- ^ カポディストリアスによればフィリキ・エテリアの計画は愚かしいもので失敗は必然と考えており、そのためギリシャはセルビア公国のような自立的な立場を目指すべきと考えていた[59][57]。そしてギリシャ独立への動きに関する情報を収集し、それらをオデッサ、モルドバ、ワラキアのギリシャ人指導者層やマヴロコルダトスらなどに注意を喚起した[57]。
- ^ 当初、ペロポネソス半島での蜂起や[63]、セルビア、ブルガリア、ワラキア、モルドバ、エーゲ海島嶼部、マニ、メッセニア、トラキア、イピロス、モレアそしてロシアで革命を展開するという方針であったが[61]、イプシランディス参加後、ロシアの支援を受けた上で、ワラキア、モルドバ両公国へ解放者として侵攻して陽動作戦を行い、ペロポネソス半島を中心とするギリシャ本土に反乱を起こさせて共同戦線を張ることによりオスマン帝国に対応できなくさせ、さらにロシア王室から皇帝を選んでギリシャ帝国を建設するというものに変更されたが[64][54]、これは1812年のブカレスト条約でワラキア、モルドバ両公国にオスマン帝国の駐留が認められておらず、さらに両公国にはギリシャ人が多数、住んでいたこと、ペロポネソス半島では準備が整っていなかったことが関係している[65]。
- ^ セルビア人、ブルガリア人らは自らの民族運動を整えつつあり、大部分のセルビア人、ブルガリア人らはギリシャが覇権を握ることに反感を持っていたが[59]、モルドバ、ワラキア両公国の公の息子らがフィリキ・エテリアを信奉していたことから支援が受けられると判断されていた[54]。また、一部のブルガリアの都市、スリヴェン、プロヴディフ、ガブロヴォなどではエテリアを支持する勢力が存在していたため、ブルガリアでも蜂起を計画していたが、あまりにも勢力が小さかったため、蜂起には加わらなかった[66]。
- ^ 柴によればイプシランディスはアリー・パシャの打倒を目指していたとしている[71]。
- ^ なお、アリー・パシャは持久戦を取ってオスマン帝国がフィリキ・エテリアの鎮圧に軍を割くことを期待していたが、オスマン帝国はアリー・パシャの包囲を解くことはなかった。そのため、アリー・パシャは1822年1月に裏切りによって殺害、アリー・パシャの勢力は消滅し、戦闘は終了したが、1年半渡ってオスマン帝国を釘付けたことから、アリー・パシャはギリシャ独立の影の功労者とも言える[73]。
- ^ この部隊は砲13門、小銃125丁、サーベル99本、弾丸12万3300発、火薬1万1772キログラムと必要物資を持ってきた[76]。
- ^ この資金調達で5万5千ルーブル、千フロリンが集められた[76]。
- ^ このフィリキ・エテリアとヴラディミレスクの蜂起には第1次セルビア蜂起の参加者であるハジ・プロダン、ラーデ・ヴチニッチ、ステファン・ジヴコヴィッチ・ニシャリア、ステファン・ジヴコヴィッチ・テレマックらやロシア軍の元ブルガリア人部隊に所属していたハジ・ハミル、カプタン・コイチョらが参加していた[54]。
- ^ トゥードア・ヴラディミレスクはワラキアの民兵隊の隊長。1814年より反乱の準備にとりかかっており、フィリキ・エテリアとも密命を結んでいた[79]。
- ^ ヘッシュによればカポディストリアスもしくはロシア政府が直接、間接を問わずにフィリキ・エテリアの蜂起に関わった証拠はないとしている[80]。
- ^ 本文に記載したのはクロッグによるもの。矢田によればギリシャ人、アルバニア人、セルビア人、ブルガリア人、モンテネグロ人の義勇兵がイプシランディスの元に集まり、ブカレストを占領したとしている[79]。
- ^ 阿部によればこの密使がたとえオブレノヴィチの元にたどり着いたとしても当時、セルビア内部で内紛があったことから協力することはなかっただろうとしている[78]。
- ^ なお、フィリキ・エテリアの蜂起の影響でワラキア、モルドバの両公国を牛耳っていたギリシャ人であるファナリオティスらがオスマン帝国によって粛清され、両公国の君主にはルーマニア人貴族が任命されるようになった[84][85]。
- ^ ペロポネソス半島で発生した反乱についてはフィリキ・エテリアの蜂起に関係があったかどうかは異論が存在する。クロッグによれば、エテリアの蜂起とペロポネソス半島での蜂起の関係はどの程度まであったのかどうかはっきりしていないとしており[88]、柴[89]、周藤、村田らも同じ意見である[87]。しかしウッドハウスによれば、ペロポネソス半島にアレクサンドロス・イプシランディスの弟、ディミトリオス・イプシランディスが軍事指揮官として派遣されていることや、エテリアにおける他の指導者的立場のギリシャ人らがギリシャ各地に送り込まれるなどしたため、協調行動であったとする[90]。また、スボロノスによれば、ディケオス・パパフレサスや結社の他の会員が躊躇する有力者を屈服させた上でペロポネソス半島やギリシャ本土、エーゲ海島嶼部で革命を宣言したとする[75]。木戸によれば半島の有力者たちは日和見的態度を取っており、フィリキ・エテリアとオスマン帝国を両天秤にかけていた。しかし、オスマン帝国政府が事態を掌握するためにペロポネソス半島の有力者を招集しようとしたため、人質にされることを恐れた有力者たちは僧院に集まり、オスマン帝国への戦いを選んだとしている[91]。百瀬によればエテリアの組織網がペロポネソス半島に形成されており、エテリアが蜂起したという情報がペロポネソス半島での蜂起を導いたとしている[92]。一方でジョルジェヴィチ、フィッシャー・ガラティによればイプシランディスとフィリキ・エテリアが出した檄文を手に入れたギリシャ各地の教区長は1821年1月末にペロポネソス半島のヴォスティツァに集合、モルドバ・ワラキア両公国、セルビア、ロシアのモルドバ進攻が開始されたらそれに呼応して蜂起する計画を採用したとしている[86]。
- ^ ただし、3月25日にギリシャ独立戦争が勃発したわけではなく、それ以前からイドラ、プサラ、スペッツァ、などで蜂起が始まっており、早い段階で有利な情勢になっていた[74]。
- ^ この宣言は「カラマタ宣言」と呼ばれており、モレア蜂起を世界最初に宣言したものとなった。なお、この宣言はフィリキ・エテリアの文書ではなく、ペトロス・マヴロミハリスの署名が成されていた[95]。
- ^ ロシア系ギリシャ人、一説によればビザンツ帝国コムネヌス朝の末裔とされる[98]。
- ^ 1822年2月までオスマン帝国はアリー・パシャの殲滅を最大目標としていた[100]。
- ^ ただし、バイロンは1824年1月にメソロンギに到着はしたがすぐに病死したため、戦いには参加していない[87]。
- ^ 皮肉なことにグリゴリオス5世はアレクサンドロス・イプシランディス、ミハイル・スツォス、モルダヴィアのギリシャ反乱軍をオスマン帝国皇帝や聖なる神の意思に背くものとして幾度も非難する回勅を発していた[105]。
- ^ 政府の中心を成していたのはペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)であった[100]。
- ^ 周藤・村田によれば1822年1月[112]。
- ^ 憲法の起草にはネグリスとマヴロコルダトスらが携わった[100]。
- ^ この時、大統領にペトロビー(Petrobey)が選出されたが数カ月で解任された[121]。
- ^ 後にシリアが割譲されるが、これはペロポネソス半島での戦いやナヴァリノの開戦でうけた壊滅的打撃の代償としてムハンマド・アリーが要求したことによる。そしてそれまで良好であったマフムト2世とムハンマド・アリーの関係はこれ以降、悪化する[125]。
- ^ メッテルニヒによればギリシャでの出来事は暴動でヨーロッパの諸列強を分断するもので、ロシア・オーストリア間の間に楔を打ち込むものだとしている[132]。
- ^ この時、親フランス派、親ロシア派も動きを見せたが、これは実を結ばなかった[140]。
- ^ イギリスが単独で介入するとイギリス対オスマン帝国の図式が出来上がり、ヨーロッパ中を戦争に巻き込む可能性があった。そしてこの戦争が発生した場合、ギリシャが独立する利益を失うことをカニングは予想していた[140]。
- ^ ただし、藤井によればアレクサンドル1世はオーストリアとの協議の結果、1822年8月1日にメッテルニヒとの協力は不可能であると宣言したとある[136]。
- ^ ロシアはこの時、バルカン半島の正当な統治者はあくまでもオスマン帝国であると考えていたことから完全独立は否定しており、オスマン帝国宗主権内での自治国化を与えることを考えていた[142]。
- ^ これはギリシャ暫定政府大統領マヴロコルダトスがストラッドフォード・カニングと会談して、非公式に受けれいたものである[146]。
- ^ ヨーロッパの王家のいずれにも血統が繋がらないサグセン=コーブルク家もしくはザクセン公をギリシャ国王とすることを計画していた[136]。
- ^ さほど力は強くなかった[136]。
- ^ オルレアン家から国王を迎えてイオアニス・カポディストリアスを指導者とすることを計画していた[136]。
- ^ これは宣戦布告をせずに戦いに至ったためであり、オーストリアのメッテルニヒも怒りを示している[145]。
- ^ 周藤、村田によれば1827年3月[149]。
- ^ 当時、休職中ではあったがロシア外務次官であったカポディストリアスが選ばれたのはカポディストリアスがウィーン会議に参加したように経験豊富な外交官であり、また、イギリス、フランス、ロシアと対等に交渉できる人物として選出された[149]。
- ^ カポディストリアスによればギリシャの独立はあくまでも列強国の妥協による「棚からぼたもち」的なものであり、成熟したギリシャ人らが自ら進んで得たものではないとしていた。そのため、ギリシャが本当の独立を得るには自ら強力な指導力を発揮してギリシャ人の教育を行わなければならないと考えていた[151]。
- ^ カポディストリアスの意思背景には各種異論が存在する。スロボノスによれば、ロシア党のコロコトロニスの協力を得た上でギリシャをロシア皇帝の意図に沿わせることを意図していたとしている[153]。しかし、周藤・村田によればイギリス、フランスらは当初、カポディストリアスに対してロシアの手先というイメージを持っていたが、後にこのイメージは払拭されたとしている[149]。また、ウッドハウスによれば、カポディストリアスはロシアの代理人としてではなく、一人のギリシャ人として考え、行動したとしている[155]。
- ^ モルドバ・ワラキア両公国とセルビアにおけるロシアの特権についての履行が規定されていた[158][139]。
- ^ カポディストリアスは大司教を「キリスト教徒のトルコ人」、軍指導者を「追い剥ぎ」、知識階級を「たわけ者」、ファナリオティスを「悪魔の子供」とこき下ろしていた[165]。
- ^ スロボノスや桜井によれば、カポディストリアスはギリシャ人国家の設立に真剣に取り組んでいたが、ロシア寄りの政策をとっているとしてイギリス、フランスが不信感を抱いていたため、反カポディストリアス派と手を組んで支援したとしている[168][166]。
- ^ この決定はあくまでもイギリス、フランス、ロシアの間で成されたもので、バイエルン王国を勢力圏とするオーストリアは完全に蚊帳の外に置かれた[145]。
- ^ たとえば1791年に出版されたフィリピディスとコンスタンダスによる著作『新地理』によるとハプスブルク帝国内にはオスマン帝国出身のギリシャ人が約40万人居たとされている。しかし、これはバルカン半島の正教徒商人全てをギリシャ人と見做した可能性が指摘されている[176]。
脚注
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- ^ ジョルジェヴィチ、フィッシャー (1994)、p.99
- ^ 百瀬他 (2001)、p.56
- ^ a b ジョルジェヴィチ、フィッシャー (1994)、p.96
- ^ 柴(2001)、p.71
ギリシャ独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 07:11 UTC 版)
そのきわめて重要な地理的位置から、シロス島は海の要衝として知られるようになった。その上、特殊な社会的・宗教的・制度的な条件も加わって、シロス島は1821年にはじまったギリシャ独立戦争において中立を表明し、ギリシャ反乱軍に参加することはなかった。このため、革命期には安全な避難先として、アナトリア半島、ヒオス島、スペツェス島、プサラ島、アイヴァリ、スミルナ、キドニア、カソス島などから多くの難民が押し寄せた。
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ギリシャ独立戦争
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パトラはギリシャ独立戦争(1821年~1829年)で重要な役割を果たした。パトラは当時ペロポネソス最大の都市で、全アカイアとマニ半島を司る最初の革命首都が置かれた。パトラの人口1.8万人の2/3以上がギリシャ人で、商人や中産階級は少なかった。パトラの商業的重要性から、ヨーロッパ中から領事が来ていた。ロシア領事のヴラソポウロスも友愛会に所属していた。オスマン帝国はテペデレンリ・アリー・パシャとの戦争の軍資金を得る為、パトラに重税を課したが、パトラはこれを拒否した。その為、パトラの雰囲気は1821年2月中旬から緊張し始めた。同時期、友愛会はパトラ反乱を計画し、弾薬や資金、作戦を準備していた。オディッセアス・アンドロウツォスはパトラに隠れ、ヤニス・マクリヤニスは来る反乱の指導者に会う為にパトラを訪れた。これらの動きを怪しんだトルコ人は、2月28日に所有物を要塞に運び込み、3月18日には家族と一緒に要塞に入った。3月23日、トルコ人は市街地に散発的に攻撃を仕掛け、区画を幾つか破壊した。自由戦士パナギオティス・カラツァス率いる革命軍は銃を用いてトルコ人を要塞に押し返した。マクリヤニスは後に回顧録でこう語っている。 Σε δυο ημέρες χτύπησε ντουφέκι ’στην Πάτρα. Οι Tούρκοι κάμαν κατά το κάστρο και οι Ρωμαίγοι την θάλασσα. 「パトラでは2日後に銃撃戦が始まった。トゥルク人は要塞を包囲し、ギリシャ人は海岸を確保した。」 3月25日、革命軍はパトラのアギオス・ゲオルギオス広場で革命宣言を行った。この日が独立戦争の公式の開始日になっている。友愛会のゲルマノスはパトラに戻り、自由戦士を祝福した。3月26日、革命軍は各国の領事に革命の理由を書簡で説明した。しかし、ユスフ・パシャ率いる主に騎兵からなる約300人のトゥルク兵は、イオアニアからエウボエアに進路を変更し、4月3日にパトラに上陸した。援軍を得た城のトゥルク兵は都市を破壊・略奪した。革命軍に好意的なスウェーデン、プロイセン、ロシア、フランスの外国領事はパトラから脱出した。中立を保ちギリシャ人を領事館に入れなかったイギリス領事のグリーンと、フランス領事のプクヴィルは、革命が恐ろしかったと記している。装備も練度も低い革命軍は強い抵抗は出来なかった。地元の靴職人のカラツァスは、トゥルク人の住居地区での攻撃を妨害した。最終的に、城の外のトゥルク人は1828年にフランス兵に除去された。
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ギリシャ独立戦争
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「サントッレ・ディ・サンタローザ」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説
サントッレ・ディ・サンタローザは今回のピエモンテ革命の首謀者ともいえる存在であり、失敗した以上逮捕されれば死刑は免れなかった。そのことからマルセイユやリヨンを経由してスイスに亡命し、ジュネーヴでは他の亡命したイタリア人愛国者ルイージ・オルナート(イタリア語版)やフェルディナンド・ダル・ポッツォ(イタリア語版)と交流を持った。 その後、ローザンヌ、パリを経由してロンドンへの移り住んだ。ロンドンではジョバンニ・ベルシェやウーゴ・フォスコロ、ジャチント・プロヴァナなどイタリア人愛国者との交流を維持し、革命への熱意を絶やさなかった。また、フランスに滞在していた間にはピエモンテ革命を叙事的に記した『ピエモンテ革命』(『La révolution piémontaise』)を出版。これがフランス文学者の目に留まり、特にヴィクトル・クザンとの友好関係を築いてこれは生涯途絶える事が無かった。 しかし1824年になると、オーストリア帝国に支配されるイタリア同様にオスマン帝国という大国の支配下にあったギリシャで独立機運が高まり、暫定政権が樹立されるなどしていた。サントッレ・ディ・サンタローザはそれに共鳴し、安全なイングランドを捨ててギリシャに渡る。そしてギリシャ軍に入隊して1825年には増援部隊100名の指揮官として1825年スファクテリアの戦い(ギリシア語版)に参戦し、何らかの形でそこで戦場に散った。
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ギリシャ独立戦争
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「ムハンマド・アリー」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説
「ギリシャ独立戦争」も参照 1822年、オスマン帝国からの要請によりギリシャ独立戦争に参戦。もともとムハンマド・アリーは、カイロやアレクサンドリアで革命組織が結成されアレクサンドリアから義勇兵が出港するのを黙認するなど反乱に厳しく対処していたわけではなかったが、アラビア遠征に続きオスマン帝国の「積極的で従順な奉仕者たることを強いられ」る恰好となった。 エジプト軍は1824年にクレタ島、カソス島、カルパソス島を制圧。次いでギリシア本土の制圧を命じられたが、この頃からムハンマド・アリーにはただ単にオスマン帝国の命令に従うのではなく、この戦争を近代式軍隊ニザーム・ジェディトの実力を試し、国際社会、イスラム社会における存在感を高める好機ととらえるようになった。ムハンマド・アリーにはさらに、モレア地方(ペロポネソス半島)を領有し東地中海における貿易権を獲得しようという目論みを抱くようにもなった。1824年7月、アレクサンドリアから海路モレア地方上陸を目指したエジプト軍は、反乱軍の艦隊に苦戦しながらも翌1825年1月に上陸に成功するとイブラーヒーム・パシャの指揮のもと陸上戦を優位に進め、ナヴァリノ(現ピュロス付近)、トリポリツァ、ミソロンギ、アテネなどを制圧した。 ムハンマド・アリーは単に武力を用いて反乱を鎮圧するのではなく、外交を駆使して自国に有利な状況を作り出そうとしていた。1826年9月、ムハンマド・アリーはアレクサンドリア駐在のイギリス総領事ヘンリー・ソールト(英語版)に対し、海軍力の増強とアラビア方面への勢力拡大を認めることと引き換えにギリシアからの撤退を打診した。この時、ソールトはムハンマド・アリーの真意を以下のように推し量っている。 ムハンマド・アリーは心中で、かれの独立についての総括的保障をイギリス政府から得、トルコ政府と対抗できるようになることを望んでいるが、直接それに言及することを避けているように思えた。 — (岩永 1984, pp. 91–92) イギリスとの交渉に際しムハンマド・アリーは、ギリシアでの軍事行動を抑制し、オスマン帝国や反乱鎮圧を支持するオーストリアを苛立たせた。オーストリアはムハンマド・アリーのもとに使者を送り、イギリスはエジプトに対し好意を抱いてはおらず、弱体化を望んでいると説いたが、ムハンマド・アリーはイギリスとの関係を重視する姿勢を崩さなかった。オスマン帝国はムハンマド・アリーに対し戦争の全指揮権を委ねることを打診した。ムハンマド・アリーはこれを辞退したがオスマン帝国側がかつてのエジプト総督でムハンマド・アリーによって追放された、ムハンマド・アリーの仇敵ともいえるヒュスレヴ・パシャ(フスロー・パシャ)をオスマン帝国海軍司令官から解任した上で改めて要請すると、受け入れざるを得なくなった。1827年7月6日、イギリス・フランス・ロシアは「休戦をもたらすために共同で努力する」旨の協定を結び、オスマン帝国側が停戦要求に応じない場合は海上封鎖を行いエジプト軍の補給路を断つことで合意した。ムハンマド・アリーは軍事行動の開始を引き伸ばしてイギリスとの交渉を続けたが、期待に反し1827年8月8日、イギリス側はムハンマド・アリーの要求に応えることなく、ギリシアへ軍隊を派遣し強力な干渉を行うことを予告した。岩永博は、イギリスがムハンマド・アリーの期待を裏切った原因として、ギリシャ独立戦争においてエジプト軍が行った虐殺や捕虜虐待に対する非難が西欧社会で湧き起こっていたことを指摘している。 イギリスとの交渉が決裂する2日前の8月6日、これ以上出兵を引き延ばせないと判断したムハンマド・アリーはアレクサンドリアから海軍を出撃させた。これに対しイギリス・フランス海軍も休戦を求め示威行動を開始し、10月13日にはロシアの艦隊も合流した。10月20日、ナヴァリノ湾においてオスマン帝国海軍が発砲したのをきっかけに戦闘となり、オスマン帝国およびエジプト海軍は艦船の4分の3を失う大敗を喫した(ナヴァリノの海戦)。この戦いでエジプト海軍は壊滅し、さらにその後行われた海上封鎖により補給路を断たれたことで陸軍の半分を飢餓で失った。ギリシャ独立戦争参戦はエジプトに多大な社会的、経済的損失をもたらすこととなった。 ムハンマド・アリーは、事態を楽観視した挙句3か国の介入に対し「狂信的・短絡的」に反発した「豚頭のスルタン」と「驢馬のような宰相」の愚鈍さが敗戦を招いたと認識し、オスマン帝国からの完全な独立を決意するに至った。
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ギリシャ独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:59 UTC 版)
1770年のオルロフの反乱では、メソロンギ艦隊は敗北し、町はオスマン帝国に占領された。また、1821年5月20日にはメソロンギがオスマン帝国に反逆し、ギリシャ独立戦争の間、町はギリシャ人反乱軍にとっての主要な要塞となった。1822年にはオスマン帝国軍に町は包囲されたが、守り切ることに成功した。しかし1825年4月15日には、30,000人を率いたレシド・メフメト・パシャと、ムハンマド・アリーの息子で10,000人を率いたイブラヒム・パシャによって2度目の包囲が開始された。1年間の包囲の末、飢餓に直面するようになったために、1826年4月10日夜にメソロンギ市民は包囲された町から脱出することを試みた。その時メソロンギ市民は10,500人であり、その中で装備した者はわずか3,500人であった。しかし計画は密告され、脱出に成功できた者はほとんどいなかった。 ヨーロッパ諸国は1826年の事件の残虐さを非難した。ドラクロワによる『ミソロンギの廃墟に立つギリシア』が描かれたのもこの時である。メソロンギ市民のこの英雄的姿勢と、その後のトルコ・エジプト連合軍によるメソロンギ市民の虐殺を考慮して、後にメソロンギの町は「ヒエラ・ポリス(聖なる町)」という名誉的な称号を授与された。 イギリスの有名な詩人で、親ギリシア的であったジョージ・ゴードン・バイロンは、ギリシャ人反乱軍を支援したが、1824年にメソロンギの地で亡くなった。現在町には、彼の心臓が収められた慰霊碑と、彼の彫像が安置されている。
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ギリシャ独立戦争
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「イオアニス・コレティス」の記事における「ギリシャ独立戦争」の解説
エピダヴロスで開催された第一回ギリシャ国民会議に、彼はイピロス地方の代表として参加した。1822年には内務大臣の職に就いた。アストロスでの第2回国民会議以降ではエヴィア島の地方官に任命され、トルコ軍との戦闘に従事した。 彼は中央ギリシャにおける反乱軍を率いていたルメリ党に属し、1824年、クンドゥリオティスを元首とすることに反対するテオドロス・コロコトロニス率いるペロポネソス半島の反乱軍と対決、これを撃破してコロコトロニスを捕虜としてイドラへ投獄した。 第3回国民議会では、トルコ軍の物資が集積されていたペロポネソス半島の町を攻撃するためにテッサリア、マケドニア地方から兵士を移送する任務についた。 イオアニス・カポディストリアスが1828年にナフプリオに到着すると彼はサモス島の総督に任命された。翌年には国防大臣となっている。カポディストリアスの暗殺後は1832年まで内戦が続き、彼は再びルメリ党の指導者となった。彼はテオドロス・コロコトロニスとアウグスティノス・カポディストリアスとの3人で共同統治を試みたが、対立が深まり失敗に終わった。
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ギリシャ独立戦争と同じ種類の言葉
戦争に関連する言葉 | ウオー オーストリア継承戦争 ギリシャ独立戦争 クリミア戦争 ジャワ戦争 |
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