オスマン帝国の反撃 -ギリシャ独立戦争第二期-
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「オスマン帝国の反撃 -ギリシャ独立戦争第二期-」の解説
一方で不利な状況に陥っていたオスマン帝国側のスルタン・マフムト2世はムハンマド・アリーにより統治されていたエジプトに助けを求めた。アリーはモレア州(ペロポネソス半島)、クレタ州(クレタ島)の割譲などかなりの利権分配を条件に1824年7月に参戦、派遣された息子のイブラヒム・パシャは1825年2月にカソス、クレタ島を占領するとペロポネソス半島南西部に残されていたオスマン帝国最後の拠点メトニに上陸、ナヴァリノ、メソロンギ(1826年)を占領するとアテネ(8月)も占領された。そのため、ギリシャ軍は危機的状況に陥った。これらの諸問題を解決するにはヨーロッパ列強の力を借りるしか考えられない状況になっていたが、その一方でギリシャ側もペロポネソス半島ではコロコトロニスが、ギリシャ本土ではゲオルギオス・カライスカキス (en) が、海上ではアンドレアス・ミアウーリス (en) やゲオルギオス・サクトゥリスらの元へ集まった諸勢力が再び抵抗を開始した。
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