弁論家としてとは? わかりやすく解説

弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 03:02 UTC 版)

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「弁論家として」の解説

キケロは、その時代の他の弁論家とともにカトゥルスについて言及し、「昔のやり方ではなく今のほぼ完璧なやり方知的訓練受けていた。彼は多くの本を読んでおり、態度暮らし振りだけでなく話し方にも最高の品の良さがあり、完全に純粋なラテン語話せた。しかし一流弁論家とは見なされてはいなかった。もしも当時一流弁論家たちの演説聞いたら、カトゥルスはそれには劣ると思えるだろう。しかし、比較せず彼の話だけを聞くなら、気に入るだけでなく、彼ほどの弁論家探してもいないと思うだろう」としている。キケロはまた『弁論家について』で、カトゥルスの母ポピリアの葬儀演説言及しているが、この演説聞いているすべての人が非常に喜んだ述べている。

※この「弁論家として」の解説は、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事については、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の概要を参照ください。


弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 15:58 UTC 版)

クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)」の解説

マリウス派の敗北後、ホルタルスの政治的社会的活動対す制限無くなった紀元前81年にはプブリウス・クィンクティウスの裁判原告側代理人務めている。セゥクストゥス・ナエウィウスという人物が、ガリア・ナルボネンシスのクィンクティウスの土地を、自分債務者であると主張した。ナエウィウスの代理人ルキウス・マルキウス・ピリップスで、25歳キケロがクィンクティウスの弁護人務めたキケロのこのときの弁護記録残っており、キケロはホルタルスへの極端な敬意示しているが、それを通して皮肉が見える。裁判結果自体残っていない。しかし、キケロ勝った推定され、弁論家としてホルタルスの有力なライバルとなったアッピアノスは、スッラ葬儀において、遺体の前で「当時の最高の弁論家」が演説した記しているが、これはホルタルスを念頭に置いていたと思われるしかしながら、この演説行ったのはピリップスかもしれないF. ミュンツァーは、ピリップスは既に執政官監察官経験しており、より社会的地位高かったため、彼のほうが可能性が高いと考えている。一方でホルタルスはようやくクルスス・ホノルム名誉のコース)を歩み始めたばかりであった。 おそらく紀元前77年のことと思われるが、グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ(紀元前81年執政官)が告訴されるという、極めて注目度の高い裁判があった。ドラベッラはスッラ有力な支持者一人であったが、マケドニア属州総督時代権力乱用に関してカエサルから告発された。ホルタルスは、ガイウス・アウレリウス・コッタと共に弁護人一人となった。この裁判詳細不明であるが、歴史学者A. イェゴロフはその規模社会的意義において、ウェッレス弾劾裁判匹敵するものであったとしている。アウルス・ゲッリウスカエサルの「初めての演説」に言及しており、少なくとも数回公判あったようだ。ドラベッラは自身無罪確信しており、挑戦的で、告発に対して攻撃的な態度見せたが、最終的に無罪になった。同じ頃にマルクス・カヌレアの裁判があったが、ホルタルスはここでもコッタと共に弁護人務めている。この勝利によって、追放から戻ったコッタが弁論家としての名声取り戻すこととなったが、同時にホルタルスもコッタ同等みなされるようになったその後紀元前70年頃までの数年間は、ホルタルスが最高の弁論家としての名声得た時期であったコッタ紀元前74年紀元前73年死去している)。彼は多く裁判参加し、常に勝利を収めてたようだが、彼の人生のこの時期についての具体的な情報はほとんど残っていない。アスコニウス・ペディアヌスによると、法務官経験者であるグナエウス・コルネリウス・ドラベッラの裁判関係したとしているが、紀元前81年執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベッラと同姓同名のため、混乱があるかもしれないキケロはガイウス・ウェッレスがドラッベラに不利な証言したことがあったから、ウェッレス弾劾演説の中でこの話に言及している。おそらく紀元前74年には、ガイウス・スクリボニウス・クリオ紀元前76年執政官)とその義兄弟であるクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス紀元前78年執政官と共にスッラ制限した護民官権限復活させようとした護民官クイントゥス・オピミウスを告発し有罪判決得た考えられる。 ホルタルスは、キケロ親戚であったテレンティウス・ウァッロの告訴であった可能性がある。キケロによると、ホルタルスは判事に対して大きな影響持ち通常とは異なる色のついたタブレット使って、彼らの投票コントロールしていた。このため秘密投票においても、誰が有罪投票をし、誰が無罪投票したかを知ることができた。

※この「弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)」の解説は、「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の解説の一部です。
「弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)」を含む「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事については、「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の概要を参照ください。


弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 18:36 UTC 版)

ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事における「弁論家として」の解説

キケロサピエンスを、スキピオ・アエミリアヌス並んで、この時代二人の最高の弁論家一人呼んでいるが、「サピエンスの方が饒舌であったスキピオ・アエミリアヌスとは異なりサピエンス弁護人として法廷定期的に出廷しため、より多く演説経験積んでいた。彼の短く輝かしい」演説新官職について』はキケロ賞賛され、キケロは「このスピーチほど愉快なものはなく、神聖な事柄についてこれ以上大きな声で話すことは不可能である」と考えた。しかしキケロ同時にサピエンス古風音節切れない話法懐古趣味に過ぎるとも述べており、また彼の最高の演説でもスキピオ・アエミリアヌスのものよりは優れていないとも評している。 サピエンス演説スタイル主な利点は、優美さ愉快さ優しさであったが、聴衆鼓舞する力強さ能力には欠けていた。このことは、キケロプブリウス・ルティリウス・ルフス語った話で示唆されている。サピエンス殺人罪告訴され借家人裁判紀元前138年)で弁護人務め二度渡り素晴らしくエレガントで、かつ入念に準備され演説行ったが、どちらの場合執政官捜査続行命じたこのためサピエンス依頼人対し。「ガルバならばもっと熱い弁論ができる」とセルウィウス・スルピキウス・ガルバ相談するようアドバイスしたガルバはこの依頼を「慎重に、しかし躊躇なく次の裁判前日引き受けたガルバ何人かの協力者と共に執政官退出時間告げるまで演説続けたガルバは「それぞれの区切りのところが拍手で終わるような、印象的な演説」を実施し結果被告無罪となったタキトゥスの『弁論家に関する対話』の中で、サピエンス過去におけるの弁論家一人として言及されているが、その「初期未熟な雄弁は......いくつかの欠点がないわけではなかった」と評されている。 タキトゥスより後の資料には、サピエンスに関する言及はなく、スキピオ・アエミリアヌスその時代の最高の演説家位置づけている。歴史学者T. Bobrovnikovaは、サピエンス対す高い評価は、本人実力というよりも、スキピオ・アエミリアヌスがそう見做したことが大きいと考えている。

※この「弁論家として」の解説は、「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事については、「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の概要を参照ください。


弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 17:45 UTC 版)

ルキウス・リキニウス・クラッスス」の記事における「弁論家として」の解説

クラッスス裁判での影響力は、マルクス・スカウルスの元老院での影響力匹敵する称されキケロクラッスス弁論について、当代一で、他の一流人間同じく準備をすればするほどその出来良くなるタイプだと述べており、弁舌よりも権威経験重視されたスカウルスの時代から、クラッススの無限の才能によって弁舌国家行く末左右する程になったとしている。ただ、まだあまり長い演説行われておらず、クラッスス自身飾り気のない明快な弁論好んだという。彼はエンニウス作品や、ガイウス・グラックス演説演習使っている。アヘノバルブスに対して、「先天的な要素なら諦めもつくが、後天的な事で負けたとあって我慢できない」と述べており、かなりの負けず嫌いだたようだキケロクラッススと並ぶと高く評価するアントニウス・オラトルと法廷争ったこともある。小カトの父が瑕疵担保責任についての判例作ったとされるが、キケロ親類のマルクス・マリウス・グラティディアヌス(英語版)がこの件で訴えられたときに、アントニウス・オラトルがグラティディアヌスの、クラッスス被害者側の弁護行なったキケロ子供の頃、この2人についてある噂があった。クラッスス学識初歩的なものでしかなく、アントニウス・オラトルのそれは初歩すら身につけていないと。しかしこの両者学識は相当なもので、クラッスス学究的なギリシャ人よりも実践的なローマ人重んじているイメージ作り上げていただけであり、アントニウス・オラトルはそのようなことに頓着せず自己の弁舌こそがローマ人合っていると信じていたという。キケロは、クラッスス弁論大衆向けであり、アントニウス・オラトルのそれは裁判向けであると評している。 ユーモア使いこなすこともあった。マルクス・ペルペルナ (紀元前92年の執政官)審判人とする民事訴訟で、これもグラティディアヌスが相手側だったが、見目の悪い相手弁護人幾度も妨害されたとき、クラッススは「この美青年の話を伺うとしようか」と言って人々笑わせた相手が「見た目どうにもできなかったが、頭はどうにかなったぞ」とやり返すと、「ではその雄弁ぶりを堪能させて頂くとしよう」と応えて場内爆笑させたという。 下から沸かすお風呂初め作った大変な食道楽のガイウス・セルギウス・オラタが、牡蠣毎日食べるためにバイアエ(英語版付近のルクリヌス湖(英語版)の公有地不法占拠していた問題訴訟では、「友人から、湖のそばにいない牡蠣食べられなくなるよと言われたそうが、そんなことはない。わざわざ湖に行かなくても、屋根瓦いっぱい使ってあるじゃないかと言った逸話残っている。

※この「弁論家として」の解説は、「ルキウス・リキニウス・クラッスス」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「ルキウス・リキニウス・クラッスス」の記事については、「ルキウス・リキニウス・クラッスス」の概要を参照ください。


弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:14 UTC 版)

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の記事における「弁論家として」の解説

キケロブルトゥス』の中で、カピトリヌスを「本物弁論家とは言えなかったが、彼の演説中には知恵洗練された言葉遣い見られた」と評価している。しかし『義務について』では「非常に巧み演説を行う」としている。ただし、法廷姿を現すことはほとんどなかった 。おそらくキケロカピトリヌス演説原稿持たずに、記憶だけに頼って弁論術判断したであろうカピトリヌス演説断片現存している。キケロは『元老院での帰国感謝演説』でカピトリヌスから聞いた話として、「まれに一人執政官悪人だったことはあったが、ローマ建国以来キンナ時代除けば二人とも悪人だったことはない。であるので、この国に一人まともな執政官がいる限りは、私(キケロ)の立場万全だと、いつも言ってくれていた」と書いている。この執政官二人制度擁護する声明 を、キケロは『家庭について』でも引用している。

※この「弁論家として」の解説は、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の記事については、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の概要を参照ください。


弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:20 UTC 版)

ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の記事における「弁論家として」の解説

古代作家たちは、コッタローマで最も有能な弁論家一人としている。キケロコッタ性格をスルピキウスと比較して、「これほど似たような弁論家はいなかった」とし、この二人同時代人中でも最も雄弁さに優れていたと論じている。コッタはアントニウス・オラトルをモデルとし、クラッススがスルピキウスのモデルであったキケロコッタは「力強さにかけていた」が、「最も機知に富んだ繊細な種類演説」でこれを補っていた。 ...コッタは慎重ででよどみなく明解喋ったが、肺が弱かったので激し演説諦めて、体の弱さ対応した話し方開発した彼の話は誠実で簡素で適切であったまた、これが一番重要なことだが、彼は情熱的な演説陪審気持ち変えようとするのではなく、彼らを穏やかに興奮させることで、スルピキウスが強力な衝撃でもって陪審員説得したのと、同じ効果を得ることができた... キケロブルトゥス』、202. コッタ学術教育信奉者であり、そのために彼は特に説得術長けていた。彼がいくつかの演説出版したことは知られている。同時に演説テキストは、博学ではあったが自らは弁論家ではなかった騎士身分のルキウス・アエリウス・スティロ・プラエコニウスが代筆したこともある。キケロは、コッタ死後30年近く経ってから書かれた『ブルトゥス』の中で次のように述べている:「偉大な弁論家であり、全く愚かな人ではないコッタが、なぜアエリウス重みのない短い多く演説をも自分演説として出版したのかは不思議なことだ」。

※この「弁論家として」の解説は、「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の記事については、「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の概要を参照ください。


弁論家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 16:15 UTC 版)

クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「弁論家として」の解説

ホルタルスの演説は、3つの短い引用文以外には何も残っていないため、キケロ論説基づいて判断するしかない。アシアティック・スタイル(ギリシア風)の信奉者であり、華やかさパトス複雑な言葉使い等よって特徴づけられた名人芸的リズミカルな演説行ったキケロによると、アシアティック・スタイルの演説には二つタイプがあるが、ホルタルスはその双方卓越していた。一つエピグラム警句)風の凝ったやり方で、重みとか深刻さを欠くが洗練されていてシンメトリーのある警句多用するもう一つ警句多用するではなく激しくてスピードのあるスタイルで、単に演説淀みないだけでなく、飾り言葉機知に富んだ言葉多用する。古い世代の人たちは、ホルタルスの雄弁さを好まなかった。キケロルキウス・マルキウス・ピリップスがホルタルスの話を聞いたときに、顔に怒り憤り表したことが何度もあったと述べている。一方で若い人たちはこのスタイル喜んでいた。 ホルタルスの成功は、弁論への情熱(彼は毎日話し、その技術を向上させていた)、書き留めることをせずに全て手を覚え優れた記憶力声高らかで心地よい声に支えられていた。彼の姿勢動きには、弁論家が必要とする以上の芸術があった」。服装思慮深く身振り手振りも非常に表情豊かで、多くの人が彼を俳優例えたその時代の最高の俳優、クイントゥス・ロスキウス・ガッルスやクラウディウス・アエソプスは、彼の弁論学び来ていた。キケロによると、「若い頃のホルタルスの弁論権威にとぼしかったが、それにも関わらず彼の若さ合っていた。ところが、年長者権威身に着けるうになると、重々しさが必要となってきたが、彼はもはや自分相応しくなくなった話し方変えなかった。さらに、彼は弁論訓練をやめ、以前にはあった激し熱意弱まっていた」ために、人気無くなったとしている。 いくつかの演説出版されているが、古代著者は、演説比較すると書くことは得意でなかったと認めている。パテルクルスは、ホルタルスの『年代記(Annals)』に言及している(特に、同盟市戦争中のパテルクルスの曽祖父功績が非常に生き生き描かれている)。おそらく、ヘレニズム精神に基づく詩的叙事詩であった思われる総じて、ホルタルスはヘレニズム文化造形の深い、非常に高学歴人物であった

※この「弁論家として」の解説は、「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の解説の一部です。
「弁論家として」を含む「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事については、「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「弁論家として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「弁論家として」の関連用語

弁論家としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



弁論家としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス (改訂履歴)、クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス (改訂履歴)、ガイウス・ラエリウス・サピエンス (改訂履歴)、ルキウス・リキニウス・クラッスス (改訂履歴)、クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス (改訂履歴)、ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS