弁論家として
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「弁論家として」の解説
キケロは、その時代の他の弁論家とともにカトゥルスについて言及し、「昔のやり方ではなく今のほぼ完璧なやり方で知的訓練を受けていた。彼は多くの本を読んでおり、態度や暮らし振りだけでなく話し方にも最高の品の良さがあり、完全に純粋なラテン語を話せた。しかし一流の弁論家とは見なされてはいなかった。もしも当時の一流の弁論家たちの演説を聞いたら、カトゥルスはそれには劣ると思えるだろう。しかし、比較せずに彼の話だけを聞くなら、気に入るだけでなく、彼ほどの弁論家は探してもいないと思うだろう」としている。キケロはまた『弁論家について』で、カトゥルスの母ポピリアの葬儀の演説に言及しているが、この演説を聞いているすべての人が非常に喜んだと述べている。
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弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)
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「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「弁論家として(紀元前82年 - 紀元前70年)」の解説
マリウス派の敗北後、ホルタルスの政治的・社会的活動に対する制限は無くなった。紀元前81年にはプブリウス・クィンクティウスの裁判で原告側代理人を務めている。セゥクストゥス・ナエウィウスという人物が、ガリア・ナルボネンシスのクィンクティウスの土地を、自分が債務者であると主張した。ナエウィウスの代理人はルキウス・マルキウス・ピリップスで、25歳のキケロがクィンクティウスの弁護人を務めた。キケロのこのときの弁護記録は残っており、キケロはホルタルスへの極端な敬意を示しているが、それを通して皮肉が見える。裁判の結果自体は残っていない。しかし、キケロは勝ったと推定され、弁論家としてホルタルスの有力なライバルとなった。 アッピアノスは、スッラの葬儀において、遺体の前で「当時の最高の弁論家」が演説したと記しているが、これはホルタルスを念頭に置いていたと思われる。しかしながら、この演説を行ったのはピリップスかもしれない。F. ミュンツァーは、ピリップスは既に執政官と監察官を経験しており、より社会的地位が高かったため、彼のほうが可能性が高いと考えている。一方でホルタルスはようやくクルスス・ホノルム(名誉のコース)を歩み始めたばかりであった。 おそらく紀元前77年のことと思われるが、グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ(紀元前81年執政官)が告訴されるという、極めて注目度の高い裁判があった。ドラベッラはスッラの有力な支持者の一人であったが、マケドニア属州総督時代の権力乱用に関して、カエサルから告発された。ホルタルスは、ガイウス・アウレリウス・コッタと共に弁護人の一人となった。この裁判の詳細は不明であるが、歴史学者A. イェゴロフはその規模と社会的意義において、ウェッレス弾劾裁判に匹敵するものであったとしている。アウルス・ゲッリウスはカエサルの「初めての演説」に言及しており、少なくとも数回の公判があったようだ。ドラベッラは自身の無罪を確信しており、挑戦的で、告発者に対して攻撃的な態度を見せたが、最終的には無罪になった。同じ頃にマルクス・カヌレアの裁判があったが、ホルタルスはここでもコッタと共に弁護人を務めている。この勝利によって、追放から戻ったコッタが弁論家としての名声を取り戻すこととなったが、同時にホルタルスもコッタと同等とみなされるようになった。 その後紀元前70年頃までの数年間は、ホルタルスが最高の弁論家としての名声を得た時期であった(コッタは紀元前74年か紀元前73年に死去している)。彼は多くの裁判に参加し、常に勝利を収めていたようだが、彼の人生のこの時期についての具体的な情報はほとんど残っていない。アスコニウス・ペディアヌスによると、法務官経験者であるグナエウス・コルネリウス・ドラベッラの裁判に関係したとしているが、紀元前81年の執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベッラと同姓同名のため、混乱があるかもしれない。キケロはガイウス・ウェッレスがドラッベラに不利な証言をしたことがあったから、ウェッレス弾劾演説の中でこの話に言及している。おそらく紀元前74年には、ガイウス・スクリボニウス・クリオ(紀元前76年執政官)とその義兄弟であるクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス(紀元前78年執政官)と共に、スッラが制限した護民官の権限を復活させようとした護民官クイントゥス・オピミウスを告発し、有罪判決を得たと考えられる。 ホルタルスは、キケロの親戚であったテレンティウス・ウァッロの告訴者であった可能性がある。キケロによると、ホルタルスは判事に対しても大きな影響を持ち、通常とは異なる色のついたタブレットを使って、彼らの投票をコントロールしていた。このため、秘密投票においても、誰が有罪投票をし、誰が無罪に投票したかを知ることができた。
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弁論家として
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「ガイウス・ラエリウス・サピエンス」の記事における「弁論家として」の解説
キケロはサピエンスを、スキピオ・アエミリアヌスと並んで、この時代の二人の最高の弁論家の一人と呼んでいるが、「サピエンスの方が饒舌であった」スキピオ・アエミリアヌスとは異なり、サピエンスは弁護人として法廷に定期的に出廷しため、より多くの演説の経験を積んでいた。彼の「短くも輝かしい」演説『新官職について』はキケロに賞賛され、キケロは「このスピーチほど愉快なものはなく、神聖な事柄についてこれ以上大きな声で話すことは不可能である」と考えた。しかしキケロは同時に、サピエンスの古風で音節が切れない話法は懐古趣味に過ぎるとも述べており、また彼の最高の演説でもスキピオ・アエミリアヌスのものよりは優れていないとも評している。 サピエンスの演説スタイルの主な利点は、優美さ、愉快さ、優しさであったが、聴衆を鼓舞する力強さと能力には欠けていた。このことは、キケロがプブリウス・ルティリウス・ルフスに語った話で示唆されている。サピエンスは殺人罪で告訴された借家人の裁判(紀元前138年)で弁護人を務め、二度に渡り、素晴らしく、エレガントで、かつ入念に準備された演説を行ったが、どちらの場合も執政官は捜査の続行を命じた。このため、サピエンスは依頼人に対し。「ガルバならばもっと熱い弁論ができる」とセルウィウス・スルピキウス・ガルバ に相談するようアドバイスした。ガルバはこの依頼を「慎重に、しかし躊躇なく」次の裁判の前日に引き受けた。ガルバは何人かの協力者と共に、執政官が退出の時間と告げるまで演説を続けた。ガルバは「それぞれの区切りのところが拍手で終わるような、印象的な演説」を実施し、結果被告は無罪となった。 タキトゥスの『弁論家に関する対話』の中で、サピエンスは過去におけるの弁論家の一人として言及されているが、その「初期の未熟な雄弁は......いくつかの欠点がないわけではなかった」と評されている。 タキトゥスより後の資料には、サピエンスに関する言及はなく、スキピオ・アエミリアヌスをその時代の最高の演説家と位置づけている。歴史学者T. Bobrovnikovaは、サピエンスに対する高い評価は、本人の実力というよりも、スキピオ・アエミリアヌスがそう見做したことが大きいと考えている。
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弁論家として
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「ルキウス・リキニウス・クラッスス」の記事における「弁論家として」の解説
クラッススの裁判での影響力は、マルクス・スカウルスの元老院での影響力に匹敵すると称され、キケロはクラッススの弁論について、当代一で、他の一流の人間と同じく、準備をすればするほどその出来が良くなるタイプだと述べており、弁舌よりも権威と経験が重視されたスカウルスの時代から、クラッススの無限の才能によって弁舌が国家の行く末を左右する程になったとしている。ただ、まだあまり長い演説は行われておらず、クラッスス自身も飾り気のない明快な弁論を好んだという。彼はエンニウスの作品や、ガイウス・グラックスの演説を演習に使っている。アヘノバルブスに対して、「先天的な要素なら諦めもつくが、後天的な事で負けたとあっては我慢できない」と述べており、かなりの負けず嫌いだったようだ。 キケロがクラッススと並ぶと高く評価するアントニウス・オラトルと法廷で争ったこともある。小カトの父が瑕疵担保責任についての判例を作ったとされるが、キケロの親類のマルクス・マリウス・グラティディアヌス(英語版)がこの件で訴えられたときに、アントニウス・オラトルがグラティディアヌスの、クラッススが被害者側の弁護を行なった。 キケロが子供の頃、この2人についてある噂があった。クラッススの学識は初歩的なものでしかなく、アントニウス・オラトルのそれは初歩すら身につけていないと。しかしこの両者の学識は相当なもので、クラッススは学究的なギリシャ人よりも実践的なローマ人を重んじているイメージを作り上げていただけであり、アントニウス・オラトルはそのようなことに頓着せず、自己の弁舌こそがローマ人に合っていると信じていたという。キケロは、クラッススの弁論は大衆向けであり、アントニウス・オラトルのそれは裁判向けであると評している。 ユーモアを使いこなすこともあった。マルクス・ペルペルナ (紀元前92年の執政官)を審判人とする民事訴訟で、これもグラティディアヌスが相手側だったが、見目の悪い相手側弁護人に幾度も妨害されたとき、クラッススは「この美青年の話を伺うとしようか」と言って人々を笑わせた。相手が「見た目はどうにもできなかったが、頭はどうにかなったぞ」とやり返すと、「ではその雄弁ぶりを堪能させて頂くとしよう」と応えて場内を爆笑させたという。 下から沸かすお風呂を初めて作った大変な食道楽のガイウス・セルギウス・オラタが、牡蠣を毎日食べるためにバイアエ(英語版)付近のルクリヌス湖(英語版)の公有地を不法占拠していた問題の訴訟では、「友人から、湖のそばにいないと牡蠣が食べられなくなるよと言われたそうが、そんなことはない。わざわざ湖に行かなくても、屋根瓦にいっぱい使ってあるじゃないか」と言った逸話が残っている。
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弁論家として
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の記事における「弁論家として」の解説
キケロ『ブルトゥス』の中で、カピトリヌスを「本物の弁論家とは言えなかったが、彼の演説の中には知恵と洗練された言葉遣いが見られた」と評価している。しかし『義務について』では「非常に巧みな演説を行う」としている。ただし、法廷に姿を現すことはほとんどなかった 。おそらくキケロはカピトリヌスの演説の原稿を持たずに、記憶だけに頼って弁論術を判断したのであろう。 カピトリヌスの演説の断片は現存している。キケロは『元老院での帰国感謝演説』でカピトリヌスから聞いた話として、「まれに一人の執政官が悪人だったことはあったが、ローマ建国以来キンナの時代を除けば、二人とも悪人だったことはない。であるので、この国に一人のまともな執政官がいる限りは、私(キケロ)の立場は万全だと、いつも言ってくれていた」と書いている。この執政官二人制度を擁護する声明 を、キケロは『家庭について』でも引用している。
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弁論家として
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「ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)」の記事における「弁論家として」の解説
古代の作家たちは、コッタをローマで最も有能な弁論家の一人としている。キケロはコッタの性格をスルピキウスと比較して、「これほど似たような弁論家はいなかった」とし、この二人は同時代人の中でも最も雄弁さに優れていたと論じている。コッタはアントニウス・オラトルをモデルとし、クラッススがスルピキウスのモデルであった。キケロはコッタは「力強さにかけていた」が、「最も機知に富んだ繊細な種類の演説」でこれを補っていた。 ...コッタは慎重ででよどみなく明解に喋ったが、肺が弱かったので激しい演説は諦めて、体の弱さに対応した話し方を開発した。彼の話は誠実で簡素で適切であった。また、これが一番重要なことだが、彼は情熱的な演説で陪審の気持ちを変えようとするのではなく、彼らを穏やかに興奮させることで、スルピキウスが強力な衝撃でもって陪審員を説得したのと、同じ効果を得ることができた... キケロ『ブルトゥス』、202. コッタは学術教育の信奉者であり、そのために彼は特に説得術に長けていた。彼がいくつかの演説を出版したことは知られている。同時に、演説のテキストは、博学ではあったが自らは弁論家ではなかった騎士身分のルキウス・アエリウス・スティロ・プラエコニウスが代筆したこともある。キケロは、コッタの死後30年近く経ってから書かれた『ブルトゥス』の中で次のように述べている:「偉大な弁論家であり、全く愚かな人ではないコッタが、なぜアエリウスの重みのない短い多くの演説をも自分の演説として出版したのかは不思議なことだ」。
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弁論家として
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「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「弁論家として」の解説
ホルタルスの演説は、3つの短い引用文以外には何も残っていないため、キケロの論説に基づいて判断するしかない。アシアティック・スタイル(ギリシア風)の信奉者であり、華やかさ、パトス、複雑な言葉使い等よって特徴づけられた名人芸的でリズミカルな演説を行った。キケロによると、アシアティック・スタイルの演説には二つのタイプがあるが、ホルタルスはその双方に卓越していた。一つはエピグラム(警句)風の凝ったやり方で、重みとか深刻さを欠くが洗練されていてシンメトリーのある警句を多用する。もう一つは警句を多用するのではなく激しくてスピードのあるスタイルで、単に演説が淀みないだけでなく、飾り言葉や機知に富んだ言葉を多用する。古い世代の人たちは、ホルタルスの雄弁さを好まなかった。キケロはルキウス・マルキウス・ピリップスがホルタルスの話を聞いたときに、顔に怒りと憤りを表したことが何度もあったと述べている。一方で若い人たちはこのスタイルを喜んでいた。 ホルタルスの成功は、弁論への情熱(彼は毎日話し、その技術を向上させていた)、書き留めることをせずに全て手を覚える優れた記憶力、声高らかで心地よい声に支えられていた。彼の「姿勢や動きには、弁論家が必要とする以上の芸術があった」。服装も思慮深く、身振り手振りも非常に表情豊かで、多くの人が彼を俳優に例えた。その時代の最高の俳優、クイントゥス・ロスキウス・ガッルスやクラウディウス・アエソプスは、彼の弁論に学びに来ていた。キケロによると、「若い頃のホルタルスの弁論は権威にとぼしかったが、それにも関わらず、彼の若さに合っていた。ところが、年長者の権威を身に着けるようになると、重々しさが必要となってきたが、彼はもはや自分に相応しくなくなった話し方を変えなかった。さらに、彼は弁論の訓練をやめ、以前にはあった激しい熱意も弱まっていた」ために、人気が無くなったとしている。 いくつかの演説は出版されているが、古代の著者は、演説に比較すると書くことは得意でなかったと認めている。パテルクルスは、ホルタルスの『年代記(Annals)』に言及している(特に、同盟市戦争中のパテルクルスの曽祖父の功績が非常に生き生きと描かれている)。おそらく、ヘレニズムの精神に基づく詩的叙事詩であったと思われる。総じて、ホルタルスはヘレニズム文化に造形の深い、非常に高学歴な人物であった。
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